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やっと私は奴隷から人間になった。

自分の言葉を書くことでしか、浮かばれない自分がいて、これはある種の弔いに似ている。

アウトプットが苦手だったので、ここはその訓練の場所として機能している。自分なりの考えはそこそこあるが、なかなか出す機会がなくて、ここはその思索の足跡を外に出していく場所だと思っている。というか、子供の頃から自己主張してよかった思い出があまりないので、言わなくなってしまっただけなんだけどね。

自分の意見を持っていれば、モラハラ気味の両親や祖父母からも「可愛げがない」と言われ、学校の教師からも「生意気だ」と言われ、その度に怒られていた。20代は一生懸命他人の顔色を伺って自分の意見を言えなかったことを思えば、今はそれなりに自分の考えを話せるようになった方かも知れない。
どれくらい言えなかったかというと、当時付き合っていた人がイライラしているだけで「怒られるのではないか」と思って涙が出て軽くパニックになっていたくらい。もし何か意見が食い違ったら、話し合いすら出来ないでひたすら泣いて怒られないように謝って乗り切っていたくらい。そうやって相手を困らせて呆れられて話が終わる。……それくらい、コミュニケーションが破綻してた。そんな時にもそっと優しくしてくれる彼や友人はいたので、その優しさに甘えて生きていたのだと思う。
その後、水商売で男性に甘やかされたり、大事にされたり、男性と触れ合う回数が増えて、なんとなく会話も出来るようになって。
そしてさらに時は経ち、今は離れてしまった友人と出会って、さまざまなことを教えてもらう中で訓練したことを使いながら占いをはじめた。占いで人の話を聞き続けていたら、だんだん話せるようになってきて。今はこうして自分の考えを書き出す練習中。人との会話も、上手ではないが、仕事に支障ない程度にはこなせるようになった。

きっと、やっと私は人間になれたのだ。奴隷ではなく。 


父も母も奴隷だったので、奴隷の生き方を仕込もうとしていたんだけど。その奴隷の生き方すら上手に出来ない自分は、ここへきてようやく、人になれたんだと思う。

それは、自分の身体で情報を感じ取り、自分に誠実に選び取り、自分には何が最適なのか問いかけながら生きていくという、言葉にするとそれだけなんだけど、それをするためにはあらゆる制限を見つけて消していかなきゃいけない。

「大学に行きなさい」「就職しなさい」「正社員になって、好きなことは老後の楽しみ」「出世しなさい」「上を目指しなさい」「異性と付き合いなさい」「ひとりの人と真面目にお付き合いしなさい」「男らしく/女らしくありなさい」「結婚しなさい」「子供を持ちなさい」「家族をつくりなさい」「親を大事にしなさい」「はみ出てはいけないよ」「普通のことが出来ないのはおかしいことなんだよ」「異常者になるとお前の居場所はないよ」

そういう数多の見えない制限を持って、その檻の中でなんとなく無自覚に流されて生きることが「自分の人生だ」「人生なんてこんなもんさ」そんな風に思っている人をなんていうのか。奴隷と言うのだ。
本当は、そんな檻はないんだけど、檻はないって言うことすら憚られるくらい、その檻を「常識」としている人には、もう何を言っても届かないんだ。
明らかに裸なのに、「あの王様は裸だよ」って言うことを許されないのは奴隷じゃないのか。奴隷ではない子供を叩いて同じ檻に押し込んで奴隷にしていくのが躾だったり教育だったりする側面もあるんじゃないのか。


その意味で私は、「学校は奴隷をつくるところ」って言ってるんだけど。それは自分の親を見ていてもそう思うし、自分が教育学部に進学したので余計にそう思う。もちろん日本の教育は制度としてちゃんとしている部分もあるのだけど。そもそも教師は訓練された奴隷だ。奴隷が優秀な奴隷をつくるところに私には見える。

自分は「ここはこういうところなんだ」「仕方がない」と、ある程度割り切ってなんとなく乗り切ってきた側の人間だけど、結局社会人になって大幅にドロップアウトしたので、結局ちゃんとした奴隷にはなれなかった。

かと言って、会社で働いている人が全員奴隷だとか、フリーランスは自由人だとか、そういうことでも無い。芸能界なんてフリーランスだけど封建的の極みだったりするし、会社員だって自分に合ったことを自由に生き生きやってる人もいるだろう。
だから、実際の手段や肩書きの問題ではなくて、「何故それをするのか」「何を自分が選ぶのか」ということに自覚的かどうか、というのが大事なことなんだ。



「必ず就職しなくてはいけない」のではなく、就職、独立、あるいはフリーランス、起業、 研究、あるいは働かない…など、さまざまな選択肢がある中で、自分の道にとってはどれがいいのか、選んでいくことが大事なのだ。
そうやって選べるということを知っていて、自分でどれを選んでもいいのだ、制限もなく、何かペナルティもなく。世界はまだ完全にはそういう状態にはなっていないけれど、そうあって欲しい。
就職以外でも何でもそうだけど、そういう風に最初から明らかにされていない選択肢は、自分で手探りで探していくしかない。最近はそういう道は無数に広がっていて、それぞれがそれぞれの生き方を探せるようになってきたのだと思う。


そういう風に自分でひとつひとつ制限を外しながら選び取っていくことができることが「人間になれた」ということなんじゃないか。「〇〇しなくちゃ」に怯えることなく、何をしてもいいし、何を望んでもいいなら、何をしたいだろう?
そういう自由があるのに見えなくなってしまう制限を、たくさん抱えて生きている。
その制限を破壊しながら、生きていく道はおもしろいものだ。やっと人間になって、息が吸えるようになった。今はそんな感じ。


(この記事は2021.10月に書いた文章のリライトです)


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