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中村佑子著『マザリングー性別を超えて<他者>をケアするー』|読書記録15

読書記録15冊目は中村佑子著『マザリングー性別を超えて<他者>をケアするー』だ。

割と話題になっていた文庫版化だったので、読んだ人も多いかも‥!


著者自身、母となった経験を通して、母の経験を語たりづらさ(語る言葉がないこと)を体感した。それでも、母を考えることがこの社会で不可視化されていることを探ることになると考えた著者が、「母」とはどんな存在なのかを探るために、母をキーワードに多くの母、そして子どもを産まなかった人、さらには男性にもインタビューをしながら、母とは何か、この社会で生きる上でどんなことが見えなくなっているのか、そこにはどんな意味や喜びがあるのかを検討していく。
なお、「母」という言葉はとても手垢のついた言葉だ。いろんな意味づけがされて、歪曲されてきた言葉。それに変わる言葉として、著者は「マザリング」という言葉を採用している。性別を超えて、ケアが必要な存在を守り育てる言葉。

「マザリング」とは、自分や他者の痛みに鋭敏になり、いつ終わるとも知れない計画できない時間を待ちながら過ごすという、文明が退化させてしまった他者に寄り添う感覚を取り戻すプロセスであったと感じている。それは、私たちの文明を問い直す力でもあると言えるだろう。

まえがき p.16

本書は主に2点の目的で書かれていたと思う。
ケアを私的領域に押し込め社会から見えないものとしたことによって、社会全体が冷たくなってしまっている。女性に背負わせていることへの問題提起というよりは、「ケアを通した人との関わり」という大事なものを失ってはいないかと問いかけられている。
そして、ケアを通した自己と他者の関係性。ケアの意義とはどんなことなのかを深めたのが、本書だろう。

母が忌避されている時代/社会

今の現代は「母」が忌避されている。
母になった著者をはじめ女性たちは自分の身に起きた経験を語る言葉がなかった。
仕事バリバリやってきた著者にとって、時間の流れも、言葉も全く変化する。それは社会で認識されている経験ではない。

濡れたぬるぬると乾きや冷たさ

著者は繰り返し「濡れたぬるぬる」が社会から見えなくなっていると指摘した。
ケアの場面では体液や血、お乳やよだれなど「濡れたぬるぬる」がたくさんある。
快楽の場以外での「濡れたぬるぬる」は介護と育児の場だ。
「濡れたぬるぬる」は現代都市からは排除されている。著者は都市で授乳をした経験を頼りにそのように語っている。
資本主義社会の中で、効率化され、すべてがきれいになり、すっきりとした社会になった。
そこにはケアという見えなくなった、失われた存在があるのだ。

自己と他者が未分化な存在となる

著者は経験やインタビューから、ケアを通して、自己と他者が未分化な存在となることを指摘している。
自分の子どもが転んで思わず「いたっ!」と言ってしまうような。
自分と他者の境界線が曖昧になって、まるで他者が自己の拡張された存在のようになるのだ。
痛みも分け合うし、喜びも分け合うのだろう。

ケアをするということ

ケアを不可視化させている社会の中で生きてケアを担う母。
社会の中での自己がうまく位置づけられないことによる抵抗感、不安感。
せめてもケアが担えたという効力感。
自分だけで
ケアというより人と人同士の関わりに過ぎないという悟り。
母が体験する感情もぐるぐると、でも確かに刻一刻と変化している。

著者は最終的に自分の母との向き合い直しとして本書を位置づけている。
精神疾患を患い、実は自分の妹と弟が生まれるはずだった(堕胎した)ことを知り、その後もままならない姿で生きる母への思いを再解釈する旅となっていた。

感想

・「ケア」は人が変われば何かしら違う物語がある。痛い響きを感じる人もいれば、この上ない幸せな響きを感じる人もいるのだろう。私たちは他者とともにしか生きることができない。その上で、どんな他者とどんな関わりをするのか、せざるを得なかったのかによって、物語は変化してくる。
子どもを産む/産まない選択をする人たち、ケアを担う/他者に頼る人たち、そこには必ず何かの背景があり、繋がり、影響を与え合っているのだ。

・ケアが社会の中に包摂された社会とは本当に幸せなのだろうか。それは望まれる社会なのだろうか。私にはわからない。もしかしたら、今よりも痛くて仕方がない社会かも知れない。自分の弱さを認め、正直に、素直に生きることが求められる社会。痛くてたまらないが、それこそが人間の生きる道だと思うのだろうか。

・私たちは自分の物語を何度も再解釈をして生きるのだ。
そうして自己を拡張して、自分を受け入れていく、そんなプロセスを歩んでいるのかもしれない。



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