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『夏物語』川上未映子|読書記録 04

今回読んだのは、川上未映子による『夏物語』。
こちらも前々から読まねばならんと思いながら、読めていなかった本。
大好きな作家である川上未映子による『乳と卵』の登場人物たちが新たな物語を紡いでいる。
生命とは何かを問う著作だ。


『夏物語』のあらすじ

この物語は大きく分けて2部作。
2008年、それから8年後の2016年の物語になっている。
主人公は夏子。30歳の女性だ。夏子の姉で大阪でホステスとして働く、巻子、そしてその娘、緑子が主な登場人物だ。
夏子と巻子は大阪でともに育った。幼いころに母と夏子、巻子で父親と住む場所から夜逃げをして、コミばあと暮らすようになる。
そして母親を亡くし、コミばあを亡くし、それから夏子と巻子(コミばあをなくしたときには20を過ぎていた)は2人で生きてきた。
巻子はそれからずっとホステスを続け、緑子を生みシングルマザーとなる。
そして、夏子は東京に状況をして、売れない小説家(ともいえないフリーター)となる。
2008年は巻子が豊胸手術をしたいと言い出すことを中心とした物語。
緑子はあるときから巻子と一切話さなくなり、筆談をするようになる。
夏子は彼女たちにどこか”わからなさ”を抱えながら関わる。
緑子の女の子から女性に変化していくことへの葛藤、巻子の女性としての価値が失われていくことへの恐れが描かれる。
そして、2016年。
夏子は小説が売れて、書くことで生計が立てられるようになる。
だが、何かが私にはない、と感じている日々。
そんなときに、精子提供バンクに関わる問題に触れる。夏子は取りつかれたようにそれについて調べだす。
そこから、お金持ちで仕事人間の編集者仙川、シングルマザーで物おじしない売れっ子作家の遊佐、そして、精子提供バンクによって生まれた当事者の逢沢、その恋人であり同じく当事者、さらに育ての父親に性的虐待を受けた善小百合、さらに巻子や緑子とのやりとりを通じて、子ども産むとはどういうことか、産みたいとはどんな感情なのか、葛藤がつづられる。

生きること、死ぬこと、産むか産まないか決めることー生きることの祝福を

私は何があっても生きることは美しい、この世界は美しいと思いたいと思っている。
というか、思える社会をつくらねばならない、そんな社会でないことに対して申し訳ないと思い、今の生きる原動力になっていると思う。

産むことは地球に対して暴力だと思う。自分の子を産みたいと思っていても産めない人に対して暴力だと思う。子どものケア(経済的、身体的、情緒的などすべて)が莫大であることを思えば、そもそも暴力なのかもしれない。

産む側だってどれだけの痛みや心労を抱えねばならんのだ、と思う。
私はまだ子どもを産める年齢だが、一般的に産む年齢よりは若い。
だから、まだ実感は伴わないが、仕事をして、子どもを産んで、育てて、お金のやりくりをして、を想像するだけで苦しい。
『夏物語』でも、仙川が夏子に対して、
ー子どもを産みたいとは何事か、偉大な作家は男でも女でも子どもを持たなかったんだ、子どもにかけている時間などない。小説に集中しろ。
という場面があった。
「偉大なことをなすためには子どものケアなんてやっている場合ではない」のかもしれない。

生きることは美しく、死ぬことは切ないがやはり美しく、子どもが誕生すること自体も美しく、でも子どもを産むか産まないかを決めるのは女性であるんだ、と突き付けられたと思う。
この世界を美しい場にしなければならないと思いながらも、
私だけでは到底できないし、おそらく私が生きている間にこの世界がだれにとっても安心して生き続けられる場所になることは、まず難しいのではないかと思っている。
もちろん、この世界は常にそこに生きる人の努力によって、
美しい場所として維持、更新され続けるべきではあるが、
この場所を次の世代に受け渡すとき、
こんな世界で申し訳ない、と思う未来が容易に想像できてしまうのだ。

何より生きることは美しいと言いながらも、生きることの大抵は痛みしかない。私が言う「生きることは美しい」は生きることに目を向けてみたときに、たくさんの恵みを与えられながら生きているのであって、痛みばかりの人生だけども、やはり生きることは美しいんだと思っていたいという願望込みである。

「それでもこんな世界に子どもを産み落とすのか」

わからないと思った。私は生きることは美しいんだと思うことによって、問いから逃げてきたんだ。
子どもを産むか産まないかいつか突き付けられる可能性がある問い。
勝手に女性として生まれてしまったせいでそんなことを考えざるを得なくなってしまった。自分で選んだわけではないのに。なんで女性に生まれたんだ。
というか、そんな葛藤をまた繰り返させる行為が出生ではないか。
あーーーーーー。なんなんだ。生むとは残酷なことではないか。


ただ、どうしても、私は子どもを見ると、
どうかこの子がこれからも健やかな人生を歩めることを祈らずにはいられない。
よく生まれてきてくれたね、どうか健やかに幸せで。
言葉を超えて感情がただ生きることを祝福してしまう。

夏子は子どもに「会いたい」と思っているといった。
それがどれだけ暴力的で身勝手だと突き付けられても、会いたいという感情が何なのか説明できずとも、それでも子どもを産む選択をした。

説明できないが、何かがあるから産むんだ。
生きることは美しいんだ。そうあってほしいというエゴかもしれないが、それでもそうしないと私が生きていけないんだ、生きるためにだれかに頼るしかないんだ。





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