髪を切ったノ
高校生の時にクラスメイトと色々あって私の心の平穏は、ぱらぱらと壊れた。
初めて学校を休んで心療内科に行った 何日か続けて行ったんだっけ
最悪だった
学校に行けば人格を否定され存在を否定されSNSでも色んなことを書かれて。
そんなことが始まってからはお米一口分と水しか摂取できず、クラスメイトの話し声や笑い声を聞くと口の中にどんどん酸っぱいものがこみ上げてきて、我慢だ我慢だ と自分に言い聞かせた
何故、私はここにいるのだろう 早く学校へ行かなければ。
「勉強しなさーい」
「ここからが勝負ですよー」
「ねぇ一緒にお弁当食べよ!」
「(罵詈雑言)」
時が経った
それでも私のぱらぱらに壊れた平穏は修復が難しくて。
SNSに悪口を書いた子も、他人を使って言いたいこと散々言った挙句〇ねと私の存在を否定した子も、担任との話し合いや学期が新しくなるとコロッと態度を変えて友達だの、〇〇ちゃんが唯一信頼できる子だのなんだのと言ってきた。
これまでのことは一体なんだったのだろう
返せ、返せ、
お前たちが、
もうよくわからない
何も、誰も、信じられない
穏やかだった日々はどこへ
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私はそれから時々、髪を切るようになった。
本当は自分でどこまでも、無様でもいいから切りたかったけれど
変な髪型で学校には行けないから
近所の散髪屋で切ってもらっていた
とても気持ちがよくて、またこれから生きていける気がした
けれど、髪を切り始めてから6年後の4月6日
ようやく来た、やっとやっと。
切れる、切れる、切れる、、、、
(もう自由だね)
ちょきん、ちょきん、
父がこちらへ来た すると とても大きな声で
「なんでそんなことするの!」
「なぁ、何があったん」
「なぁ」
「なんでって聞いてるんよ」
「普通の大きさで話せないのか」
五月蝿いな
ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
ーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!
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それから数日経った今日、いつもの散髪屋でガタガタになった私の髪の毛を綺麗に整えてもらった
(今、どんな気持ち?)
そうだなぁ、
「髪などまた何度だって切ってやる!の気持ちかな」
それが今の私を守る方法なのだから。
#3 夢羊
*あとがき
私にとって"髪を切る"という行為は自傷行為の代わりとして始めました。
痛いのムリ!でもなんだか自分をズタズタにしたい!してやりたい!となり思いついた行為。
これまでにも書きました通り、学生時代はどんなに辛いからといって自分で切ってしまったら、明日ガタガタの髪で学校に行ったら、、、と考え散髪屋で切ってもらうことから始めました。そして大学も卒業し、学校にも会社にもどこにも属さない私はようやく自分で髪を切ることができたのです。
無我夢中で切りました。もう見た目なんて気にならない、ただ無心で切っていました。
辛い苦しい痛いもう嫌だ誰も信じられないうるさい◯えろ私もみんなもこんなクソみたいな人生も世の中もぜーーんぶ今からなかったことになれよ◯ね!という、この腹の中に溜まった真っ黒でネチョネチョドロドロしたものをバッサリ、断ち切る。いい、とても、気持ちいい!!!
そんな私も、リストカット(以下、リスカと略す)やオーバードーズ(以下、OD)の経験があります。それは髪を切るということを始めた後のことです。
詳しくは話しませんがODの方では入院にまでなってしまい、周りの色んな人に迷惑と心配をかけ、両親はとても悲しんでいました。
だから正直、髪を切るだけでは精神が、心が平衡を保てることに直結するかといったらそうではないのだなとその時思いました。
けれど、髪を切ると決めて散髪屋に行って邪魔なものを取り払った私の頭を見るととても落ち着きました。
一時的でよいのです。だって髪を切ることも、リスカもODも同じではありませんか。何をしたって
落ち着いた瞬間も、気持ちいいと思った瞬間も、生きた心地がするという瞬間も、薬を沢山飲んで倒れて朦朧とした意識の中で透明なシャボン玉が見えた瞬間も全部、一時的な安心感を得るということになんの変わりもない。
なのでもう一度言うのですが、一時的でよいのです。よく考えてみれば精神や心が平衡を保つことすら一時的なもの。
辛くなったらまた切ればいい
誰かに怒られても、悲しまれても構わない
"髪を切る"ということが私を守る方法なんだ
外野の言葉なんて、聞いたフリもしなくていい
けれど、そんなことできないよね。
だから私は現場を目撃した父にかけられた言葉がまっすぐに突き刺さって痛かったから必死に抗って、言い争いになって、それでも我慢できずに家を飛び出したけれど。
(といってもちゃんとその日中に家に帰って、仲直りしました)
でも、本当によいのです。家族でも親友でも恩師でも結局は私じゃない。私のことはわからない。
だから気にせず自分を守る方法を、息をし続けられる方法を、生き続ける方法を見つけたのならそれを守ってほしいのです。
でもできれば、リスカやODをしたことがある方やしようとしている方、現在進行形でしているよという方にこの先を読んでほしいのです。
・
生きていれば後悔なんて死ぬほどする。少なくとも私は。
後悔ばかりの人生、むしろそれが当たり前のような気がする。
自分で髪を切ったあと、やっぱりガタガタの髪の毛のままお出かけしたりするの嫌だし、やりたかった髪型だってあったし後悔、ちょっぴりした。
リスカは傷が深ければ深いほど痕が残り続ける。もしかしたらいつかそれが何かのきっかけで後悔の元になって、リスカをしていた過去の自分をすごく恨んでしまうかもしれない。
ODをしたら記憶も意識も飛ばせて、生と死の狭間を知れて、夢の中にいるようなふわふわした感覚があった。現実から逃げられた気がした。
けれど病院で目を覚まして、ベッドの横に私の大切にしているぬいぐるみが置かれていることに気がついたとき、私はどうしてそばにある小さくてささやかな、けれどとてもあたたかな優しさや幸せに気づくことが出来なかったのだろう。私には自分のことを想ってくれる人がいるのに…と激しく後悔した。
こんなことよりもっと、私が私を安全に守る方法があるのではないか。
私が経験したことが髪を切ることと、リスカとODだからこの3つを取り上げて話をしたけれど、ここまで読んでみてどう思いましたか。
私は後悔の大きさ、重さが髪を切ることとリスカ・ODで全然違うことに気付きました。
どうせ後悔を沢山する人生なら、その後悔を小さく、軽くしたいと思いませんか。
私にはもう体を傷つけることでしか自分を保てないの!という気持ち、とてもわかります。
だから、安易に辞めろなんて言いません。けれど肯定は絶対にしません。
でも、もし自分の体を傷つけることはもう辞めたいと思ったのなら、ぜひ髪を切ってみてください。
私は今回自分で髪を切りましたが、結果的に分かったのは自分で切るとか、誰かに切ってもらうとかそれよりも、髪を切って痛みや苦しみと共にここまで伸びてしまった髪を断ち切ることに意味がありました。
髪を切った後はいつも、扉が見えていました。なんだかその扉を開けたくなりました。
ああ、もうこれまでのあんなことやこんなことは今どうでもいいや
なんだか今からお出かけしたいな
生まれ変わって、さっぱりして綺麗になった私を街中の人たちに見せびらかしたい
自撮りをしたい
なんだかこんな自分もアリな気がしてきた。
また切ろう。
切って、伸ばして、切って、息をし続けよう。
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