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ここならいてもいいかなという場を創る

昨日は
哲学者永井玲衣さんトーク
「対話ってなんだ?」に参加してきた。


対話ってなに?
ほんとわからない。

「対話」はわたしにとって
小さい頃から身近なもので、
簡単なようで難しい、
わかるようでまったくわからない、
不思議な存在としてずっとあった。


小さい頃から
対話は大切、平和は対話から始まるんだ、と
教えられてきて、
呪文のように
「対話は大切」と
染み込まされてきた気がする。


けど、昨日参加して
いろんな問いをたてて、
近くの人と話していると、
対話って大切だけど、
みんなしたがらないよね。
無理に対話ってする必要あるのかしら。
とか、
そもそも対話と会話の違いってなんだろう、
とか、
なんで対話をする時、怖れとか、対立とか
ネガティブなイメージがわくのかしら。
とか、
いろいろもやもやしてきた。


対話は2種類ある気がして、
一つは偶然生まれるもの。
もう一つは、自分で作り出すもの。


前者は何気ない会話から
ふと問いが生まれ、
それについて
正しいとか正しくないとか
関係なく
自由に話せる。
それが感動でもあったり、気づきでもあったり、
相手がいることに、話すことによって、
自分のことばが生まれてくる。
そんな楽しい対話。


後者は
自ら問いを生み出し、語りかけることから始まる。
その場合、時に話したくない人や、対話を毛嫌いする人、怖がってる人、できるならやりたくない人、
そんな人とも対話しなくちゃいけなくなる。
そんな時、わたしはどうしたらいいだろうと思うのだけど、
やっぱりなんの答えも出さなくていい、正しさはいらない、何も考えてないという答えもOK、わからないもあり、な安心できる対話の場であるといいなと思う。


永井さんは
わたしはここにいなくてもいいかな、とか、
こここそがわたしのいる場だ、とかではなく、
「ここならいてもいい場かな」が大切といっていた。


すごくこの言葉いいなぁと思った。


お店で考えてみたら、
「ここならいてもいいかな」って思えるって
すごく大切な要素だと思うし、
そういう場だからこそ
本音がこぼせたり、
自分の肩の力を抜いて
過ごせるんじゃないか。


気づけば会話から対話に変わるような
不思議なカフェ、場をつくりたい。


そんな風に昨日頭に浮かんできた。


誰かにとっての
「ここならいてもいいかな」という場が
たくさんの人に提供できたら
幸せだな、


2種類の対話の場を
お店で体現できたらいいな。


偶発的な対話、
自発的な対話。


どちらもこれからの時代は
必要になる。


対話が難しいことじゃなく、
身近で
ここならいてもいいかな、くらいの
気軽さで
感じられるように
何か行動してみたい、
そう思わされる
トークだった。


2023.11.21 mu

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