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誰の心の中にもある、叔母の不安をかき立てているもの。

『人生の最後がこんなことでいいのか?』を4回書いていて、大切なキーワードを書き忘れていることに気がついたので、急ぎ追加。

「姪親子に人生台無しにされた」と主張する下の叔母の認知症チェックは今までで4回行われていて、毎回、憎しみの対象として真ん中の叔母(私のいとこの母親)の名前が話に出てくるそうだ。それぞれ一人暮らしで、週に一度は一緒に昼ご飯を食べ、互いに助け合って暮らしている仲のいい姉妹だと思っていたのに、だ。担当の先生が「とても根深いものを感じる。もう少し究明してみます。」と言ってくれてるらしい。

さらに、前回のチェックでは、私に妹や娘はいないと言っていたのに、その直後に「いますよ。」と病院の人には何食わぬ顔で言ったとかで、わざと嘘を言っている可能性もある、と新たな見解が。なぜか?先生曰く、「注目されたいのではないか。」認知症の一種でそういうケースもあるそうだが、ややこしい。

骨折で入院する前から、下の叔母は「かわいそうな高齢者。体が弱い気の毒な人。」と思われるように振る舞っていたという。私の友達のお母さんも同じタイプで、「普通、可哀想と思われたくないよな~」と思う私は理解に苦しんだけど、「可哀想な人になりたい高齢者」は多いようだ。

相変わらず、いとこは叔母に振り回されているのだけど、言うことだけは言えるようになり、かなり強くなった。

で、書き忘れていたこと。

叔母の一連の暴言を支えているパワーは何なのか?

それは 執着!

過ぎ去った、変えようのない過去への執着。

ヨガでも「終わってしまった過去は変えようがないし、どうなるかわからない未来を思い悩んでみてもどうなるものでもない。それらに執着することが苦しみのもと。」と、執着しないことの大切さを説いている。
自分を振り返ってみても、苦しい時は、たいてい何かに執着している。

だから後から後悔しないためにも「今を一生懸命生きる」となるわけだが、過去に執着することの怖さを目の当たりにして、身に染みた。

3月初旬には叔母が退院する。
歩くこともやっとで入浴も外出も無理だと思われる退院後の生活をどうするのか、いとこを交えた病院との話し合いの場でも、下の叔母の強気は衰えない。認知症ゆえの言動なのか、困らせるための演技なのか。いとこと私は「不安や寂しさの裏返し」と同情できないところまで来ている。

そして、この叔母の一件は残念で仕方ないが、とても大切なことを教えてくれている。

⇩下の叔母の話の1回目です


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