失われつつある食文化、長崎卓袱料理。

はからずしも、また、大きなご縁をいただいて、京都で日本料理を提供する一端に触れていると嫌が応にもその成立過程や進化の軌跡と向き合う機会が多い。(5年前に書いたメモをリバイスした)。

日本の食文化が一気に華開き、多様な進取の可能性を内包したのは、16世紀の異世界の食文化との出会いだったということは言うまでもない。

南宋、福建から渡ってきたのは、喫茶と禅ばかりではない。
殺生できず、動物性たんぱく質や油脂分を欲した、禅宗の饗宴は精進料理の祖というべき、「普茶料理」を作りだす。いわゆる、もどき料理は、植物性油脂の可能性と植物性たんぱく質の濃縮、湯葉や豆腐のなどの技術的な進化を促進する。制限というのが、食の技術のイノベーションを産み出した契機だった。

いかに、ローカロリーで満足を得られるか?
欲求に駆り立てられた僧侶たちの研究は、旨味成分の抽出や濃縮といった、今では実験室で当たり前に行われている工学的な手法で記録・踏襲され技術として昇華され、街に根付いた。

ポルトガル・スペインがもたらした、小麦・動物性油脂・砂糖も熱狂的な中毒性を持って、彼らがもたらしたキリストの教えとともに島国に拡散した。今でも多くの日本料理の用語の語源が、ポルトガル・スペイン語の起源だというのは、象徴的だ。

禅宗と南蛮文化、その背景としてある教条的な面では全く形骸化されて、表層の「美味しい」ところだけ、文化に汎用させてきた経緯を見ると、日本はなんて背徳的なんだと!と言われるかもしれない。
時に全人口の多数勢力を誇ったキリスト教が、あっという間に棄教された現実を見たマカオやバチカンの宣教師たちの嘆きの数々は今も記録に残るところだ。
しかし、実利の面のみから見れば、16世紀の日本の一部というのは、世界史上稀に見るほど都市化され、各地方都市の市場経済が、全体をグイグイ牽引した社会だっとも言える。市場は、流行を呼び、革新を産み、新たな需要を作り、また深化させてきた。

河道屋さんの蕎麦ほうるが大好きで、コーヒーのお供によくいただくのだが、この「ほうる」というのは、Pole(蘭)Bolo(葡)の訛りらしく、南蛮菓子の手法を摂って蕎麦に応用したものらしい。京都という都市の素晴らしさは、新しさを応用させて永代続く商売の仕組みにしてしまうを売る側の努力みならず、買う側もその挑戦を一緒に作り守ってきた歴史があるところだ。可処分所得を街に還元する、より良い消費者でお互いあり続ける習慣が、市場競争力を今でも持ち続ける都市の所以なのかもしれない。

さて、長年首都として機能してきた京都と、西海の港文化の突端として機能してきた長崎とは、その性質上大きな違いがあるのだと思う。今の日本料理の祖というべき、卓袱料理は長崎で今も進化を遂げているかは疑わしい。

花月も残念ながら、勉強にはなるが決してまた食べたいと思いはしない。吉宗も伝統をなんとか食いつないでいる。

長崎がその都市の成立過程で築いてきた食文化は、京都から見ると失われつつあるのかもしれないと思う。街が育てる食、食・職を育てる力が長崎に少ないのかもしれないと思う。

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