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夢を叶える覚悟はあるか?:『ゴミ人間』

夢を見ることと、夢を持つことは同じようでまったく違います。

夢を見ると、目覚めたらすぐに思い出せなくなります。その夢がどんな夢だったのか思い出そうとしますが、大半の夢は思い出すことができません。そこで、思い出そうとすることを諦めるのですが、諦めたところでどうってことはありません。この夢は私の人生に何の影響ももたらしません。それくらいの関係性です。

夢を持つと、胸が踊ります。煌めく理想に自分を重ねて、心が舞い上がります。ですが、持ち続けると現実とのギャップに肩を落とすことになります。他の人に夢を打ち明けたら大変です。できなかったらという、タラレバが頭をぐるぐるします。それでも、持ち続けると不安と恐怖に苛まれます。勝算の立たない日々が続きます。この夢は私の人生にひどく傷と痛みをもたらしますが、そこでの出会いと小さな結果は生きているという実感をもたらしてくれます。

さて、あなたは夢を見たいですか?それとも、夢を持ちたいですか?

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ゴミ人間
[著]西野亮廣
KADOKAWA 2020.12
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『映画 えんとつ町のプペル』の概要

著者いわくこの本は『映画 えんとつ町のプペル』を宣伝するために書かれた本だそうです。ところが、『映画 えんとつ町のプペル』を見た後に読んでしまいました。

でも、この本を読むことで、純粋にもっと『映画 えんとつ町のプペル』のファンになりました。開始5分で泣いてしまった理由が分かりました。

物語がノンフィクションだったからです。

夢を語れば笑われて、行動すれば叩かれるこの現代社会で、夢を持ち続け、傷だらけになって、ついに夢を叶えた西野自身の物語です。

『映画 えんとつ町のプペル』は、こんな言葉で始まります。

えんとつ町は煙突だらけ。
そこかしこから煙が上がり、頭の上はモックモク。
黒い煙でモックモク。
えんとつ町に住む人は、青空を知りません。
輝く星を知りません。

そんな町でただ一人、「星」の存在を信じている少年がいました。煙突掃除屋のルビッチです。亡くなった父が、「星」の存在をほのめかしたことがきっかけなのですが、父が亡くなり一人ぼっちになったルビッチは「星」の存在を信じていることを隠していました。

そんなある日、ルビッチはゴミから生まれたゴミ人間プペルと出会います。ゴミから生まれたのでかなり臭いし、汚いのですが、やがて二人は友だちになり、プペルはルビッチから「星」の存在を聞かされます。驚いて本当ですか?と聞くプペルにルビッチは言います。

分からない。
でも、星がないことも分からない。

二人は煙がかかった空を見上げては、煙の向こうにある世界に想いを馳せる日々を過ごします。

ところが、町の人はそんな二人を笑い、攻撃します。星なんてあるわけない。そんなデタラメを信じているのか。見上げるな。という風にです。

そんな時、ルビッチが町の人に向けて叫びます。

誰か見たのかよ。
あの煙の向こう側を誰か見たのかよ。
誰も見てないだろう。
だったら、まだわかんないじゃないか!
星があることもわかんないし、ないこともわかんない。
わかんないことに蓋をしてたら、いつまでも蓋をしてたら、
もう、何も始まらないじゃないか。

そして、町の人に星を見せるための冒険に出ます。

物語そのものから得られる感動は大きいのですが、この本(舞台裏の物語)からの学びも大きなものでした。

その学びのうち3つを紹介していきます。

競争に参加しないと決めること

著者の西野は若くして、誰もが羨む座まで登り詰めました。そして気づいたことがあります。

競争に参加した時点で負けが決定してしまっているということ。

結果を出せば、喜んでくれる人がいます。なので、これでいいんだと勘違いしてしまうのかも知れません。それがその人の幸せであれば良いのですが、「一番」になりたい人であれば、勘違いもいいところです。

一番をとる人は主に、その競争をつくった人、あるいは、競争のルールを書き換えられる人です。そして、ひとたび勝者が決まると、政治の色が濃くなりカチカチの硬直状態に陥ります。そして、初めから勝者が決まってしまうことになるのです。そこに、後から参戦した戦士はどう足掻いても一番は取れません。

大切なことは、「どこで結果をだすか?」を問い続けることであり、「一番」を目指すのならば、競争に参加するのではなく、競争を作る側にならなければいけないと、著者は言います。

前回紹介した『ゼロトゥワン』でも、競争という価値観を捨てて、独占していくことを勧めていますが、その考え方ととてもリンクしていますね。

少しでも今までとは違うところに、他の人が見つけられなかった隠れた真実、もしくは見つけたけど形にできなかった真実を探して、自分だけの土俵を作ること。

これが本当の「タタカイカタ」なのかも知れません。


才能とは「挑戦した数」

競争に参加せずに、新たな土俵をつくる。

そんなもん、見つけられたら苦労はせんよ。とヤジが飛んできそうです。
そんなもん、もともと才能があるからできるんだ。と大人な発言も聞こえてきそうです。

ここでも著者の言葉が刺さります。

誰にでの才能の種はあって、大切なのは「その種をどこに植えるか?」。
その場所を教えてくれるのが「努力」の役割...
才能は、「生まれ持ったモノ」でも何でもない。
才能とは、「挑戦した数」だ。
挑戦し、そこで背負った想いや傷の集合体が「才能」だ。

この考え方は、とても励みになります。
少なくとも、「努力」は自分でコントロールできるものだからです。

才能の半分は遺伝で決まっているという研究もあるそうですが、半分は努力でなんとかなるといった解釈もできます。死ぬほど努力して半分まで辿り着いた、どうしてもその後の半分が埋められない。では、残りの半分はどうなるのでしょうか。

努力をすることは、人を惹きつけるという化学反応を引き起こすと私は思います。人が応援したくなる、手伝いたくなるほど努力ができる人は稀です。なのでそんな人が現れたら、人は助けたくなります。

何かを人並み以上に成し遂げられる確率は、数値上では上限50%に満たないかも知れません。どころが、現実世界では遺伝子以外の変数があり過ぎます。

人の感情や、その感情を形成する経験や環境、その感情や想いがぶつかるタイミング(出会い)、その時の気分や天気なども影響します。そして、どのタイミングにおいても努力し続ける人は、応援できるタイミングで応援したくなる人に出会う確率がぐっと上がるはずです。そうしたら、残りの50%は凡人同士で補い合えばいいじゃないですか。

それができれば才能を超えたビッグバンを起こせるかも知れません。

これが「努力が才能たりうる」仕組みなのだと思います。


覚悟の度合いで夢が叶う

競争に参加しないこと、そして才能とだと呼べる努力をし続けることは、そう簡単なことではありません。

すでに、社会は競争の仕組みが出来上がっているので、そのレールに乗っていることは難しそうで、実は一番簡単です。ノウハウが蓄積されていますし、先人の知恵に従っていれば、ある程度の成果は出すことができます。自分で考えているようで、実は考える必要はありません。もちろん、すでにあるノウハウを自分にどう適応するかといった思考は回しますが、その範囲を超えることはありません。

一方、レールから逸脱してしまうと、たちまちマイノリティです。社会はマジョリティ向けにつくられているので、とても生きづらいです。何をするにも今後の計画と勝算を聞かれます。でもわかりません。初めてのことをやっているからです。そして、とても孤独で本当に自分の選択が正しかったのかと自信がなくなることもしょっちゅうあることでしょう。

それを知りながらも、競争に参加せず、努力をし続けるためには、人並みの覚悟では足りません。覚悟の度合いで成果が左右されます。

この考え方も、励みになります。

覚悟も自分でコントロールできることだからです。そして、自分の人生の主人公は自分だと思わせる考え方だからです。

少なくとも、人のせいにしなくても済みます。人はどうがんばっても変えることはできません。人は期待する対象ではありません。ただ受け入れて愛する対象です。となると、ベクトルは自分に向き始めます。自分の覚悟が足りなかった、では何が足りなかったということなのか、次はどうすれば良いのかと、前を向くことができます。

夢を叶える覚悟を決めて欲しい。そんな想いが伝わる著者の言葉で締めたいを思います。

...アイデアに酔うな。誰よりも手足を動かせ。
御託を並べるな。そんなものは西野亮廣より努力してから言え。
頭を下げろ。恥をかけ。
泥にまみれろ。ただし、心は汚すな。

キミには、日本中から笑われた夢があるか?
僕には、ある。
その夢を叶える覚悟もある。

キミにはあるか?

...負けるなよ。
学び狂って、強くなれ。
圧倒的な強さを手に入れて、誰よりも優しくなれ。

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