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私的国語辞典~二文字言葉とその例文~ セレクション112『思慕(しーぼ)』

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作者駐:『私的国語辞典』は全文無料で閲覧が可能です。ただ、これらは基本『例文』となっておりますので、そのほとんどが未完となっています。基本的にそれらの『例文』は続きを書かないつもりではおりますが、もしどうしても続きが気になる方は、コメントいただければ前向きに検討させていただく所存です(←政治家か


その手紙が事務所に届いたのは、彼女があの山荘で命を絶ってから一週間が過ぎた頃の事だった。

自身の幼なじみだった彼女があのような残虐な殺人を繰り返した挙げ句に壮絶な最期を遂げた事で、彼女を自ら糾弾した先生がその手紙を見てまた鬱々と悩まれるのでは、と心配する私を余所に、先生はまるで十数年ぶりに便りが来たかのような懐かしさをこめた眼差しで手紙を見つめてから、おもむろに封を切り、ソファーに深々と座り込みながら読みはじめた。

それからしばらくは、事務所に緩やかな時間が流れていった。
外を走る微かな車の音や遠くではしゃぐ子供達の声に、時折聞こえる楽しそうな先生の呟きが混ざり合う。

「ふふっ、そんな事も有りましたね」

そう呟いた彼が手紙に苦笑した、その直接だった。
彼はまさか、と呟きながら、まるで信じられないものを見たかのように目を大きく見開いて手紙を凝視したのだ。

普段の彼をしてついぞ見たことのないその様子に、私は驚きのあまりに手紙を覗き込み、そして同様に目を見張った。

そこには、美しい、とても美しい字で、次のように書かれていた。

『思えばあの時より、貴方様に思慕の念を抱いていたのだと思います』

「せ、先生」

私は思わず問い掛けるが、その声は先生の耳には届いていない。

「──この手紙を読まれる頃には、私は自分に相応しい、地獄へと堕ちていることでしょう」

先生が、私に、というよりは、自分自身に言い聞かせるように、静かに読み上げていく。

「せめて同じ堕ちるならば、貴方様の手で堕ちたいと──」

先生はそこで不意に言葉を区切ると、ゆっくりと顔を上げて、その切れ長で美しい眼をきつく閉じた。

(681文字)

しぼ [思慕][名・他サ変]
懐かしく思って慕うこと。恋しく思うこと。

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