見出し画像

フジヤマのトビウオー日本人スイマーの自信と誇り~日本が世界に誇るJアスリート・道徳教科書に載せてほしいスポーツエピソード(4)

第4回は、終戦直後の日本人に生きる勇気と希望を与えた奇跡の長距離スイマー・古橋広之進選手です。

1 はじめに フジヤマのトビウオ                  2 教材 フジヤマのトビウオ―日本人スイマーの自信と誇り      3 おわりに 「古橋を責めないでください」

1 はじめに フジヤマのトビウオ

 戦後、自信を無くし食うや食わずの生活をしていた日本人に勇気と希望を与えたスイマーがいました。アメリカ人に<フジヤマのトビウオ>と称された長距離スイマー・古橋広之進です。

①昭和21年日大プール

 コーチもいない、練習メニューもない、泳ぐプールは中学校の25mか穴の開いた50m、食べるものもなく栄養失調の状態。こんな状態にも関わらず古橋は400m・1500m自由形の長距離種目で次々と世界記録を塗り替えたのです。まさに「奇跡」のスイマーです。この当時の日本人が詠んだ短歌があります(『昭和萬葉集』講談社より)。
 
古橋の世界記録を書きたてし 新聞をまたくり返しよむ (伊藤美重子)
世界記録になほ熱くゐて 眠られず窓開けばぢかに眉触れる秋 (高松真澄)
選手の名よみあぐる英語 場内のざわめきにしてミスター古橋といひし (中川幹子)

 これらの短歌を読むと、当時の日本人がどれほど古橋に勇気づけられ、熱い想いをもち、同じ日本人として誇りをもっていたかがわかります。

 スポーツ・アスリートがわれわれに与えてくれる力がどれほど大きなものかは、皆さんも先刻ご承知でしょう。東日本大震災のときの、なでしこジャパンの女子サッカーW杯の優勝や冬季五輪・男子フィギュアスケートの羽生結弦選手の金メダル、そしてプロ野球・東北楽天イーグルスの日本一などは記憶に新しいと思います。
 
 終戦時は日本という国家が存亡の危機にさらされていました。国民すべてが食べるものもなく、精紳的ダメージで打ちひしがれている状況です。こんな状況の中で世界新を連発して生きる希望と勇気を与えた一人の若者スイマー・古橋広之進の名前は忘れてはならないと思います。

2 教材 フジヤマのトビウオ―日本人スイマーの自信と誇り

④水泳

 1945(昭和20)年8月15日に日本は終戦を迎えました。アメリカその他の連合軍との戦争に日本は敗れたのです。戦争が終わってすぐの日本人の生活はたいへん貧しく苦しいものでした。空襲で焼け野原になり住むところも、着るものもありません。生きていくために必要な食べるものもなかなか手に入りません。

 この戦後すぐの苦しい生活の中で表れたヒーローが水泳の古橋広之進選手でした。 
 

 当時、大学の水泳部に所属していた古橋選手も苦しいのはみんなと同じです。大学にはプールもなく、中学校の25mプールで練習していました。やっと見つけた50mプールも空襲で穴が空いているので自分たちでセメントをこねて穴を埋めて使いました。練習メニューや練習方法をアドバイスしてくれるコーチもいません。

 何より苦しかったのは食糧事情が悪く、食べ物を自分たちで確保しなければならないことでした。練習の合間をぬって農家へ買い出しに出かけ、頭を下げてサツマイモを分けてもらいました。スポーツ選手でありながら、栄養失調の状態だったのです。
 
 じつは古橋選手は中学生のときに、左手の中指を第1関節から失うという致命的な事故に遭っています。戦争中の勤労動員での作業中に機械の歯車に巻き込まれて骨をつぶしてしまい、切断したのです。古橋選手はこのハンディキャップをカバーするために右手を徹底的に鍛え、フォームを改造し、キックの数も変える変則的な泳法を開発しました。

 終戦から2年後の1947(昭和22)年の日本水泳選手権。
 古橋選手は400m自由形でなんと4分38秒4の世界新記録を樹立しました。しかし、この世界新記録は国際的には認められませんでした。なぜなら、戦争に負けた日本はまだ国際水泳連盟への復帰が認められていなかったからです。

 翌年の1948(昭和23)年にはロンドンオリンピックが開催されました。しかし 、日本は開催国イギリスの反対で参加することはできませんでした。古橋選手は当時をふり返ってこう言っています。
 

「私はさびしかった。今なら世界の一流選手と泳いでも勝つ自信は充分にある。同じスタート台に並んでレースがしたかった」

 そこで、日本水泳連盟は「こうなれば意地でも外国をあっと言わせてやろう」とロンドンオリンピックと同じ日程でその年の日本選手権を開くことにしたのです。それは世界に対する日本水泳界の挑戦状でした。

 古橋選手は1500m自由形で18分37秒0の世界新記録を出しました。ロンドン五輪の優勝者マクレーンの記録は19分18秒5。なんとオリンピック金メダルの選手よりも41秒も速かったのです。2位の橋爪四郎選手も世界新記録です。続く400m自由形も4分33秒4で世界新記録です。これもロンドン五輪の優勝者スミスの記録4分41秒0よりも8秒も速い記録です。

 しかし、世界新記録を出していた日本選手に対してアメリカの新聞は「日本のプールは アメリカより短いのだろう。 日本が使っている時計の針は回り方が遅いに違いない」などと疑った記事を載せていたのです。

 くやしい思いをしていた古橋選手たちに世界と戦うチャンスが巡ってきました。当時、世界一の水泳大国アメリカの全米水泳選手権への参加が決まったのです。古橋選手は「絶対に負けない。必ず勝ってみせる」と闘志を見せていました。

 しかし、不安もありました。まだ、戦争が終わったばかりでしたから日本に対するアメリカ人の感情は決してよいとは言えなかったからです。「アメリカへ行くのはやめろ。行けば殺されるかもしれないぞ」とアドバイスする人もいました。また、日本の外務省からも「日本とアメリカの国交はまだ回復していない。安全は保障できない」と告げられていました。

 現地に到着すると、大会が開かれるロサンゼルズの雰囲気は予想どおり厳しいものでした。日本人は「ジャップ」と差別的な表現で呼ばれ、ホテルへの宿泊は断られてしまいました。宿泊させてもらった日系人の家のまわりは警官が24時間体制で警戒しているような状況でした。しかし、こんな厳しい状況の中、大会は連日、日本選手が大活躍したのです。

*1500m自由形決勝 1位古橋 2位橋爪 3位田中 日本選手が3位まで独占。*400m自由形決勝 1位古橋 4分33秒38<世界新>2位橋爪 3位村山 4位田中 日本選手が4位まで独占。*200m自由形決勝 1位浜口。*400mリレーと800mリレー 1位日本<世界新>。*個人総合 1位古橋 2位ヴァーデュアー 3位橋爪。

 大会初日に古橋選手と橋爪選手が世界新記録を出すと、まるで今までのことがウソのようにムードが一変しました 「ジャップ」と呼んでいたアメリカ人が「ジャパニーズ」と呼ぶようになりました。そして、大活躍の古橋選手には<フジヤマのトビウオ>というニックネームが付けられました。プレゼントを持ってきてくれるアメリカ人もいました。

 当時をふり返って古橋選手はこう言っています。
「私たちの心は決して貧しくなかったし、卑屈な気分も全くなかった。 私たちそれぞれの全身に世界の頂点に立った日本人スイマーの自信と誇りが脈打っていたし、使命を果たした充足感が満ちていた。それに、プレゼントを手渡すアメリカ人たちの目に、はっきりと尊敬の光が宿っていることを、私たち一人ひとりがはっきりと見ていた」

②日大水泳部


※「特別の教科 道徳」の内容「D主として生命や自然、崇高な物との関わりに関すること」「よりよく生きる喜び」(22)小学校5・6年「よりよく生きようとする人間の強さや気高さを理解し、人間として生きる喜びを感じること」中学校「人間には自らの弱さや醜さを克服する強さや気高く生きようとする心があることを理解し、人間として生きることに喜びを見いだすこと」

※発問例「古橋選手たちの活躍は当時の日本人にどんな力を与えてくれたでしょうか」「始めはよくない感情をもっていたアメリカ人の気持ちが大きく変わっていったのはなぜでしょうか」「あなたが相手に尊敬の気持ちをもつのはどんなときですか」

3 おわりに 「古橋を責めないでください」

 あの全米選手権から3年後の1952(昭和27)年に第16回ヘルシンキ五輪が開催され、前年にサンフランシスコで講和条約を結んだ日本は16年ぶりに参加することができました。

 もちろん、古橋も日本水泳チームの一員として参加しましたが、結果は決勝に残ることはできたものの8位でした。33回も世界新記録を塗り替えた奇跡のスイマーもすでに全盛期をすぎていたのです。しかも、南米遠征でアメーバ赤痢にかかって不調のまま大会を迎えたのも不運でした。400m自由形決勝で中継のアナウンサーが「日本のみなさん、古橋を責めないで下さい」と涙声とともに実況したのは有名です。

 田畑政治氏はこう言っています。

「私の個人的な感想として、お叱りを受けるかもしれないが、私は他のすべてのメダルはいらないから、ただ一つ、古橋君だけはメダルを取らせてやりたかった」
 
 田畑氏のこの発言は、ひとりのスイマーを超えた存在である古橋を―日本人に焦土の中から立ち上がる勇気と希望を与えてくれた偉業―を称えたのだと思います。

 古橋選手の生涯をまとめた動画です。

https://www.youtube.com/watch?v=N-GlHKDmdVE

<参考文献等>

*古橋廣之進『古橋廣之進「力泳三十年」』(日本図書センター 1997年)

*古橋廣之進『熱き水しぶきに―とびうおの〝航跡〟』(東京新聞出版局 1986年)

*那須田稔『フジヤマのトビウオ』(ひくまの出版 ひくまのノンフィクションシリーズ・3 1985年)

*波多野勝『東京オリンピックへの遥かな道』(草思社 2014年)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?