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インド独立のために人生をかけたF機関の藤原岩市~日本が世界に誇るJミリタリー・教科書が教えない〝戦場〟の道徳(8)

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第8回はF機関の特務機関長としてインド独立のために人生をかけた藤原岩市とインド人将兵たちとのエピソードです。

(1)西洋は無敵ではないーアジア人の〝士気〟
(2)エピソード インド独立のために人生をかけたF機関の藤原岩市
(3)インド独立を勝ち取った本当の立役者とは?
(4)参考文献等

(1)西洋は無敵ではないーアジア人の〝士気〟

 現在は世界有数の大国であるインドが、かつてはイギリスの植民地であったことは皆さんもよくご存知だと思います。このイギリスのインド植民地に象徴される西欧列強によるアジア支配は第二次世界戦後にくつがえりました。

 なぜくつがえったのか?ーこの疑問に著名なイギリスの歴史学者であるアーノルド・トインビーが答えてくれています。

「1941年、日本はすべての非西洋国民に対し、西洋は無敵ではないことを決定的に示した。この啓示がアジア人の〝士気〟に及ぼした恒久的な影響は、1967年のベトナムに明らかである」(昭和43年3月22日 毎日新聞 アーノルド・トインビー「日本の印象 三回目の訪問」) 

「1941年」とはもちろん日本が太平洋戦争へ突入した年です。「1967年のベトナム」はベトナム戦争です。つまり、当時の日本が西洋諸国を打ち破ったことの歴史的意義について語っているのです(マレー半島のイギリス軍やインドネシアのオランダ軍は日本に敗れ、降伏しています)。日本軍の勝利を当時のアジア人はリアルタイムで見ていたわけです。

 しかし、日本軍はただ単に戦闘で勝利したわけではありません。

 祖国の独立をめざすアジア各国の独立の志士たちとコンタクトし、独立に必要なものを可能な限り援助しました。もちろん、それは自国の利益になることを目的にした活動ですが、アジア人の希望の灯であったことも間違いありません。

 そして、そこには命をかけた日本人とアジア各国の人々の友情の物語が数多く生まれているのです。

(2)エピソード インド独立のために人生をかけたF機関の藤原岩市

 1941年10月。藤原岩市は、連合軍との戦争が始まる直前にタイのバンコクへと向かいました。彼に与えられた任務は、イギリスなどヨーロッパの国々の植民地にされて苦しんでいるマレー人やインド人たち助けて日本の味方になってもらうことでした。

 このために作られた日本軍内のチームはフリーダム(自由)、フレンドシップ(友情)そしてリーダーである藤原岩市のフジワラの頭文字のFをとってF機関と名付けられました。

 藤原はさっそくインド独立をめざすプリタム・シンとひそかに会談ました。当時のインドはイギリスの植民地になっていたので、イギリス軍の中にはインド人の部隊が加わっています。そこで、二人はイギリス軍の兵士となっているインド兵を目覚めさせ、逆にその兵隊たちと一緒にインド独立のためにイギリスと戦うインド国民軍を作る行動を開始したのです。

 さっそく、日本軍に降伏したイギリス軍からそのまま日本軍の味方になったインド人の中から新たな協力者が現われました。モン・シン大尉です。藤原はこのモン・シン大尉と相談して、仲間のインド人をイギリス軍に潜入させることにしました。潜入した者はインド兵の部隊に「日本軍はインド兵を助けてくれる」と話し、ひそかに戦線を離脱させたり、密林に隠れたのちに白旗をもって出てくるようにさせました。こうして、多くのインド兵が日本軍の味方になっていったのです。

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 インド兵たちは自分たちを常に見下そうとするイギリス軍とちがい、インド国民軍の自由で温かな雰囲気に安心しました。

 ある日、藤原はインド人たちと会食をする機会を作りました。日本人とインド人の親善のためです。食事はインド兵に頼んで作ってもらった珍しいインド料理です。単に親善のために、と思っての開催した食事会でしたがインド人たちはみんな驚くほど感激してくれました。

「日本軍の皆さんが、敵であるイギリス軍から来た私たちインド人と同じテーブルで会食するとは驚きです。イギリス人はインド人と食事をともにしたことはありません。インド料理を作りたいという私たちの提案さえ受け入れてくれませんでした。敵味方も、民族も越えたこの温かい食事会は日本人がインド人に対して誠意をもってくれていることの証明です」

 このモン・シン大尉の話にインド兵たちから割れるような拍手が起きました。

 その後、日本兵が担当する飛行場建設の作業をインド兵が手伝い、朝の9時から午後4時までのつらい作業を一緒にすることで、日本兵とインド兵はたちまち仲良しになってしまったのです。

 F機関の活動を「成功するわけがない」と冷ややかな目で見ていた他の日本軍将兵たちも、こうした日本人とインド人が一体となって活動する姿を見て徐々に協力してくれるようになっていきました。しかし、敵のイギリスはF機関の活動に神経をとがらせるようになり、藤原に懸賞金をかけてその命をねらうようになっていました。

 そんな危険もありましたが、イギリス軍を離脱してインド国民軍に参加する兵士の数はどんどん増えていきました。ある日、5万人近いインド兵が集まった広場で藤原はこう呼びかけました。

「インド兵の皆さん!日本はインドの独立を願う皆さんの友人です。インド兵と友情を結ぶためにここまで来ました。インド国民軍に対してあらゆる援助を行うつもりです」

 総立ちとなったインド兵から歓呼の声が上がり、数え切れない数の帽子が空中に舞い上がりました。

 こうして日本の支援によってインド国民軍が大きくなるにつれて、支援のための日本の組織も新たに編成されることになりました。これによってF機関はその役割を終えたのです。

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 その後、インド国民軍は日本軍と行動をともにしてイギリス軍との戦闘が続きました。序盤は破竹の勢いだった日本軍でしたが、徐々に形勢は逆転しイギリス・アメリカなどの連合軍の前に敗れました。約2万人のインド国民軍も捕らえられ、イギリスに刃向かったその見せしめに厳罰に処せられる運命となりました。

 しかし、インド国中の国民が「インド独立のために命をかけた戦った勇士を助けろ」と全国で立ち上がりました。今まで従っていたインド人が立ち上がったことに驚いたイギリスは混乱を恐れ、ついにインド独立を認めざる得ませんでした。

 このインド独立をきっかけにイギリスは49もあった植民地を手放すことになりました。さらに独立の動きは世界中に広がり、戦前は50数カ国しかなかった独立国は180カ国を越えたのです。

 日本は戦争には敗れましたが、藤原岩市とF機関が描いた夢はついに現実のものとなったのです。戦後、藤原はこう言っています。

「日本は戦争に敗れましたが、武力による勝敗を越える永遠の真理という勝利を得ました。戦後、インドをはじめとする東南アジアの友人たちと日本人は親近の情と深い信頼で結ばれています。それは焦土と化した日本の復興の大きな力となりました」

*「特別の教科 道徳」の内容項目「C 主として集団や社会との関わりに関すること」の「伝統や文化の尊重、国や郷土を愛する態度」「国際理解、国際親善」に関連します。

(3)インド独立を勝ち取った本当の立役者とは?

 インドが独立を勝ち取ったその要因は何か?と聞かれればおそらく10人中10人が「ガンジーと非暴力主義」をあげることでしょう。もちろん、ガンジーは世界史上忘れてはならない人物ですし、非暴力主義も有名です。

 しかし、インド独立当時のアトリー英首相は、インドのベンガル州を訪問した際のチャクラヴァティ州総督の質問にこう答えています。

「「今次大戦で連合軍が勝利をおさめ、枢軸側を完敗させ、当時世界の国々が英国がインドを統治することに対して、だれ一人反対する者のないとき、なぜ早急に撤退されたのか?」
 アトリー首相は、過去をしのぶような表情で、きわめて率直に答えた。「英印軍のインド兵の、英人指揮官に対する忠誠心が、チャンドラ・ボースのやった仕事のために、低下したということですよ」
 さらにチャクラヴァティは聞いた。
「ガンジーの非暴力運動が、どれほど英国の早期撤退に影響を与えましたか?」
「ごくわずかですよ」
 これによって、インド独立に対する最大の功労者がだれかということが、当時の敵によって裏書きされている。」(国塚一乗『インパールを越えてーF機関とチャンドラ・ボースの夢』講談社 p248)

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 チャンドラ・ボースはガンジーと並ぶインド独立運動のリーダーです。当時、インド人はボースのことを「ネタジー」(指導者)と呼んでいました。ボースはインド独立には自前の軍隊が絶対に必要だという考え方でした。なぜならば、いかに非暴力運動を繰り広げても最後には同じインド人の兵士がイギリス側兵士として運動を弾圧してしまうからです。なんとも悲しい現実です。

 日本のF機関とインド国民軍はこのボースの考える独立運動の方針をそのボースの目の前で現実のものにしてみせたのです(ボースは1945年8月18日に祖国の独立を見ることなく飛行機事故で亡くなっています)。

 つまり、インド独立の本当の立役者はボースとインド国民軍と、そして日本軍・藤原岩市のF機関だったと言ってもいいのではないでしょうか。

(4)参考文献等

*藤原岩市『藤原(F)機関ーインド独立の母ー』(原書房)※2012年に『F機関 アジア解放を夢みた特務機関長の手記』(バジリコ)として復刊されています。
*国塚一乗『インパールを越えてーF機関とチャンドラ・ボースの夢』(講談社)


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