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戦場でもロシアとの友情を忘れなかった広瀬武夫~日本が世界に誇るJミリタリー・教科書が教えない〝戦場〟の道徳(7)

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 第7回は日露戦争の戦場においてロシアとの友情を忘れなかった広瀬武夫のエピソードです。

◇新しい広瀬武夫像をめざして
◇エピソード 戦場でもロシアとの友情を忘れなかった広瀬武夫
◇もう一つの広瀬武夫エピソード
◇参考文献等

(1)新しい広瀬武夫像をめざして

 広瀬武夫―と言えばある年代以上の人には懐かしい名前です。昭和5年生まれの私の父も広瀬武夫と言えば「杉野は何処」という歌詞をいつも口にしていました。広瀬は日本人なら誰でも知っている軍人だったのです。

 広瀬は明治時代の日本海軍将校です。日露戦争・旅順口閉塞作戦で壮烈な最期を遂げました。その壮絶な戦死を遂げる前に、行方不明となった部下の杉野一等兵を探すために敵の砲弾が乱れ飛ぶ危険な船内を何度も何度も探しに行くというエピソードはあまりにも有名です(これについては「◇もう一つの広瀬武夫エピソード」をお読みください)。

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 戦前はこの危険な任務を遂行し、かつ部下を想う心の清らかさを称えて「軍神」と呼ばれました。しかし今回、この広瀬武夫を道徳教材にするに当たり、わたしは新しい広瀬武夫像を作りたいと思いました。

 旅順閉塞戦の危険な任務を全うし、あきらめずに繰り返し部下を探しに行く広瀬武夫の姿は人の心をうつ素晴らしいお話です。これを道徳の教材として復活させるのも一つの在り方だと思います。

 しかし、広瀬武夫の人生にはこの有名なエピソードだけでなく人の心を温かくさせる話、感動させる話が満載なのです。

 そこで、新しい広瀬武夫像としてロシア人との友情をメインとして取り上げ、戦争を越えた友情の話を作りました(道徳教材としての文章量を考えるとテーマを一つに絞らざるを得ないという事情もありました)。戦争があろうとも敵国の人間との間に友情と感動が成り立つことを子どもたちに教えて欲しいのです。

 広瀬武夫をぜひとも道徳の教材に復活させたいものです

(2)エピソード 戦場でもロシアとの友情を忘れなかった広瀬武夫 

 広瀬武夫は明治時代の日本海軍の将校です。

 当時、広瀬は「これから日本と敵対するかもしれないのはロシアだ。だからこそ、そのロシアのことを知るためにもぜひともロシアで勉強したい」という希望を持っていました。ひそかにロシア語を学んでいた広瀬の思いはかなえられ、ロシアへの留学が決まりました。

 ロシアの首都・サンクトペテルブルグに到着した広瀬は、ロシア海軍の人たちと親交を深め、ロシア語の本を読み、軍港や工場を見学するなど忙しい毎日を送っていました。

 そんな中、広瀬はあるパーティーで知り合ったロシア海軍のコバレフスキー少将の家族と仲良くなりました。この家族は遠い異国の地からやってきた広瀬を温かくもてなし、まるで本当の家族のように接してくれました。明るく正直でまじめな性格の広瀬を、このロシア人の家族は深く信頼するようになっていきました。

 ある時、コバレフスキー家の18歳の次女・アリアズナは広瀬が読んでいた軍艦の本に書いてある「アサヒ」という言葉の意味をたずねました。

「アサヒとは日の出のこと、朝のぼる時の太陽のことです。ほかにもハツセ、フジ、ミカサなど日本の山の名前をつけた船があります。フジはおそらく世界で一番美しい山です。わたしの国・日本ではみんな美しいものを愛しています。ですから、堅牢な軍艦にもわたしたち日本人は詩のように美しい響きをもった名前をつけるのです。力は強い、しかし心はやさしく、姿も美しい。これが日本人の理想なのです」

 アリアズナはこの広瀬の言葉に深く心をうたれ、こう思いました。

「この人は自分の国を愛している。その愛から生まれた信念をもっているから強いのだ」

 また、広瀬にはロシア人の友人がたくさんいましたが、その中でも海軍の学校を卒業したばかりのボリス・ビルツキーとは親友でした。年下のボリスは広瀬を「タケニイサン」と日本語で呼ぶほどでした。

 広瀬の日本への帰国が決まると、ボリスはお別れのプレゼントを用意してくれました。広瀬が「君と敵味方に別れたくないね」と言うと、ボリスは「戦いが始まったら、お互いの愛する自分の国のために全力をあげて戦い抜きましょう」とつらい気持ちをおさえて答えました。 

 日本に帰国するときには、広瀬にとってロシアは第二の故郷となっていました。

 それから2年後、日本とロシアとの間で日露戦争が始まりました。広瀬は祖国である日本を守るために戦地へおもむきました。しかし、それはたくさんの友人がいる「第二の故郷」であるロシアと戦わなければならないというつらい現実でもありました。

 軍艦・朝日に乗り込んだ広瀬は重要な作戦を担当をすることになりました。敵の基地である旅順港にいるロシア太平洋艦隊が外に出てこられないようにするための閉塞作戦です。

 閉塞作戦とは狭くなった港の出入口にいくつかの汽船をわざと沈めて出てこられないようにする作戦です。しかし、これは大変危険な作戦でした。なぜなら、出入口には要塞があり、数え切れないほどの大砲が備え付けられたいたからです。
 
「ぜひ自分にやらせてほしい」
 
 こう答えた広瀬は、この危険な作戦のリーダーの一人に選ばれました。広瀬は閉塞戦で使う汽船の船体にペンキを使ってロシア語でこう書きました。

<尊敬すべきロシア海軍のみなさん。わたし広瀬武夫はこの戦場に来ました。またいつかみなさんとお会いしましょう>

 5隻の汽船で闇夜を出発した閉塞隊は敵要塞からの猛攻撃にさらされました。広瀬の乗り込んだ1隻のみ予定通り沈めることができましたが、失敗に終わりました。

 失敗を挽回するために第2回目の閉塞作戦が実行されました。今度は4隻です。広瀬の乗り込む福井丸は敵の猛攻撃の中、適切な位置まで進みました。船が止まったところで大爆発が起きました。待ち伏せていたロシア水雷艇から放たれた魚雷が命中したのです。すでに船の底にひびか入り、浸水しています。

 もう一刻の猶予もありません。確実に深く沈めるために船を自爆させる準備をしながら、脱出するためのカッター(全員が乗れる大きさの手漕ぎボート)を用意します。敵の激しい砲撃・銃撃を受けながらも作業は進み、ようやく脱出できる状態になりました。

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 脱出してもまだ安全ではありません。敵要塞から放たれる砲弾・銃弾の雨の中を16人はオールを漕ぎながら必死で逃げます。一人また一人と漕いでいる隊員に弾が当たり倒れます。隊員の中に恐怖が広がります。そのとき、広瀬が立ち上がりこう言いました。

「みんな!心配するな。俺の顔をよく見てしっかり漕ぐんだ!」

 その瞬間、広瀬の体を敵の砲弾が襲ったのです。広瀬が亡くなった後も、生き残ってカッターを漕ぎ続けた隊員たちは危険から抜け出すことができたのです。

 数日後、旅順港の海岸に広瀬と思われる日本人の遺体が漂着しました。これをロシア軍は手厚く葬ってくれました。そこにはあの親友のボリス・ビルツキーの姿もきっとあったに違いありません。

*「特別の教科 道徳」の内容項目「C 主として集団や社会との関わりに関すること」の「伝統や文化の尊重、国や郷土を愛する態度」「国際理解、国際親善」に関連します。

(3)もう一つの広瀬武夫エピソード

 ここで紹介するのは、戦前から伝わる広瀬武夫の有名なエピソードです。

 日露戦争において、その物量において圧倒的に勝るロシアのバルチック艦隊を破り奇跡のパーフェクトゲームを成し遂げたのは有名です。この日本海海戦がターニングポイントとなり日露戦争での日本の勝利が決まったといっても過言ではありません。

 じつは、バルチック艦隊を破る前に日本はどうしてもやり遂げなければならないことがありました。旅順港にいるロシアの太平洋艦隊を壊滅させることです。ロシア海軍はバルチック艦隊と太平洋艦隊の2セットを持っていました。日本の艦隊は1セットのみです。倍以上の敵と戦っては勝ち目はありません。

 そこで、ヨーロッパにいるバルチック艦隊がアジアにやってくる前に太平洋艦隊を叩く必要があったのです。そのために考えられたのが旅順口閉塞作戦です。狭い旅順港の口にあたる箇所に数隻の船を自沈させて塞ぎ、出てこられないようにするという作戦です。

 結論から言うとこの作戦は失敗します(なお、あの有名な旅順攻略戦・ニ○三高地奪取による陸からの砲撃により太平洋艦隊壊滅は成功します)。

 この作戦での広瀬の壮絶な戦死は世界中に伝わりました。

「広瀬の英雄的行為に対する讃嘆の情は、西ヨーロッパ各国もわかちもった。中にもイギリスは、国民全体をあげて感嘆した。祖国をまもるために単身戦ったローマの勇士ホラーティウス・コクレスのようだと手ばなしで礼賛してきた人もある。ドイツなどは、いち早く広瀬の肖像に漢字で「旅順口閉塞決死隊隊長、故海軍少佐、広瀬武夫」と表題し、画ハガキにして売出したくらいである。当の交戦相手の国ではあるが、ロシヤにも、ヒロセの壮烈な戦死状況は伝えられた」(島田謹二『ロシヤにおける広瀬武夫 下』朝日選書p189)

 あのアリアズナは広瀬の死を聞いてその場で卒倒してしまったと言われています。

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 道徳教材ということもあって書きませんでしたが、アリアズナと広瀬は深く愛し合う仲となり、一時はともに結婚さえも考えた間柄です。二人の恋心を詳しく知りたい方は前掲の島田謹二著『ロシヤにおける広瀬武夫 下』(朝日選書)をご覧ください。

 では、ここでもう一つのエピソードを紹介します。(2)の内容をやや改編して杉野一等兵の話を中心にしています。

<部下の命を救うために危険な戦場へ戻った広瀬武夫>
 1904年、日本とロシアとの間で日露戦争が始まりました。日本海軍の広瀬武夫は祖国である日本を守るために戦地へおもむきました。
 軍艦・朝日に乗り込んだ広瀬は重要な作戦を担当をすることになりました。敵の基地である旅順港にいるロシア太平洋艦隊が外に出てこられないようにするための閉塞作戦です。
 閉塞作戦とは狭くなった港の出入口にいくつかの汽船をわざと沈めて出てこられないようにする作戦です。しかし、これは大変危険な作戦でした。なぜなら、出入口には要塞があり、数え切れないほどの大砲が備え付けられたいたからです。
 
 しかし、バルチック艦隊という大艦隊を温存しているロシア海軍に勝つためには、まずはここにいるロシア太平洋艦隊を完全に撃破するか、閉じこめて出てこられないようにするしかないのです。
「ぜひ自分にやらせてほしい」
 
 こう答えた広瀬は、この危険な作戦のリーダーの一人に選ばれました。またこの危険な作戦への参加を募集すると約70人の募集に、なんと2000人が応募したのです。誰もがこの作戦が重要であることを理解していたことがわかります。
 広瀬は閉塞戦で使う汽船の船体にペンキを使ってロシア語でこう書きました。
<尊敬すべきロシア海軍のみなさん。わたし広瀬武夫はこの戦場に来ました。またいつかみなさんとお会いしましょう>
 ロシアに留学した経験を持つ広瀬はロシア語を話し、読み書きもできました。そしてロシア人の友だちもたくさんいたのです。
 5隻の汽船で闇夜を出発した閉塞隊は敵要塞からの猛攻撃にさらされました。また、探照灯の強い光に目がくらんで方向感覚を失い、広瀬の乗り込んだ1隻のみ予定通り沈めることができましたが、失敗に終わりました。
 失敗を挽回するために第2回目の閉塞作戦が実行されました。今度は4隻です。広瀬の乗り込む福井丸は敵の猛攻撃の中、適切な位置まで進みました。船が止まったところで大爆発が起きました。待ち伏せていたロシア水雷艇から放たれた魚雷が命中したのです。すでに船の底にひびか入り、浸水しています。
 もう一刻の猶予もありません。確実に深く沈めるために船を自爆させるための準備をしながら、脱出するためのカッター(全員が乗れる大きさの手漕ぎボート)を用意します。敵の激しい砲撃・銃撃を受けながらも作業は進み、ようやく脱出できる状態になりました。
「おい!みんな集まったか?」
 リーダーである広瀬は全員がそろっているかどうかを確認しました。すると、一人の兵士が叫びました。
「杉野がいません!」
 杉野一等兵は電気関係の技術にすぐれ、人並みはずれた体力をもつ素晴らしい隊員です。数人と甲板を探しましたが見つかりません。
「よし、すぐ戻る。みんなはここ待て」と言い残すと、二回目は広瀬が一人で探しに戻りました。
「杉野!杉野!どこにいるんだ!」
 広瀬の声が暗闇に響きます。その間も敵の砲弾がうなりをあげて水柱をあげ、銃弾が海面に突き刺さります。三回目の捜索では船底まで捜しましたが見つかりません。
 杉野を見捨てるようなことできないが、すでに福井丸は沈没寸前です。このままでは他の16人の隊員の命も危なくなってしまいます。やむなくカッターは船を離れて脱出しました。
 脱出してもまだ安全ではありません。敵要塞から放たれる砲弾・銃弾の雨の中を16人はオールを漕ぎながら必死で逃げます。一人また一人と漕いでいる隊員に弾が当たり倒れます。隊員の中に恐怖が広がります。そのとき、広瀬が立ち上がりこう言いました。
「みんな!心配するな。俺の顔をよく見てしっかり漕ぐんだ!」
 その瞬間、広瀬の体を敵の砲弾が襲ったのです。広瀬が亡くなった後も、生き残ってカッターを漕ぎ続けた隊員たちは危険から抜け出すことができたのです。
 数日後、旅順港の海岸に広瀬さんと思われる日本人の遺体が漂着しました。これをロシア軍は手厚く葬ってくれたそうです。この広瀬の戦死はイギリスやドイツ、そして敵国のロシアにも伝わり、その勇敢な行動と部下の命を大切にする優しさは各国で称賛されました。

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 かつて東京・万世橋駅(今の神田駅と御茶ノ水駅の間)の広場前には広瀬武夫の銅像がありました。しかし、今はありません。戦後の1947年に東京都の審査委員会の判断により戦争を煽った銅像ということで撤去されました。敗戦国の国民として忸怩たるものがあったとは思いますが、何とも悲しい話です。それから20年後の1966年に「神田のれん会」による銅像再建の動きがありましたが、残念ながら途中で立ち消えとなってしまいました。

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 戦火の中にあっても国際親善を忘れず、人命を尊び、自国の発展ために生き抜いた偉大な人物としてもう一度広瀬武夫の銅像を立てることはできないのでしょうか?

◇参考文献等

*安本寿久『評伝廣瀬武夫』(産経新聞出版)
*島田謹二『ロシヤにおける広瀬武夫』上下(朝日選書)
*山室健德『軍神』(中公新書)
*HP『むらくも 月に叢雲花に風』「広瀬武夫中佐の銅像」

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