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なぜ、教室で「慰安婦」を教えてはいけないのか(24)

ー児童・生徒に慰安婦を教えるのがダメな理由 その6

 前回までの連載(22)(23)で小浜逸郎氏の売買春論を見てきた。
 この小浜氏の論を読むと、公教育の場で売春やそれに関連する慰安婦をなぜ教えてはいけないか、がよくわかる。
 以下、これについて私の意見を述べることにする。
 
 「売春(買春)は悪か」に対する小浜氏の結論は「悪ではない」というものである。もう少し正確に言うと「誰にも悪と言うことなどできない」である。そして、この結論に付随してたいへん重要な以下の2点を明確にしている。

①人は売買春から「不道徳感」「汚辱感」を拭い去ることはできない。
②人は社会から売買春をなくすことはできない。

 この2点のうちの①の拭い去ることのできない「不道徳感」「汚辱感」こそが、なぜ教室で売春・セックスワーク=「正しい慰安婦の姿」を教えてはいけないのか、の理由である。
 以下、詳しく見ていく。

1 教えてはいけない理由①―「不道徳感」と「汚辱感」
 もし慰安婦を教えるとすれば売買春という事実を教えなければならない。これは繰り返し確認してきた。
 ということは、売買春にから「不道徳感」「汚辱感」を拭い去ることはできないので、子どもたちは売買春に関わるすべての人と事に「不道徳感」「汚辱感」を感じることになってしまう。

 まず買春した日本軍兵士へその目は向けられることになるだろう。次にこのような制度を取り入れた旧日本軍及び当時の日本政府もその「不道徳感」「汚辱感」の対象となるだろう。
 さらに、慰安婦本人にも「不道徳感」「汚辱感」を感じることになる。
 当時の慰安婦たちの多くは、貧しい家を出とする若い女性が多かったと言われる。それは内地である日本も、朝鮮・台湾も、さらに東南アジア等においても同じだった。そして、通常はそうしたいわば気の毒な境遇の女性に対して「不道徳感」「汚辱感」を被せてしまうという点にやるせなさを感じるものである。

 じつは、慰安婦授業肯定派はここに目を付けている。
 彼らは、売買春の問題点①にある「不道徳感」「汚辱感」を利用し、ある政治的目的をもって日本軍・日本政府を「悪者」にして糾弾しようとしているのである。
 だが、「不道徳感」「汚辱感」の対象はこれにとどまらない。慰安婦本人もその対象に含まれてしまう。これでは糾弾のパワーが落ちてしまう。なぜなら、自分たちが糾弾したい日本軍・日本政府と同じになってしまうからである。

 そこで、彼らは慰安婦の「正しい姿」を隠すという方策を取ったのである。
 慰安婦は、売春を仕事とするセックスワーカーであるということをひたすら隠し、売春婦ではない一般の女性を「強制」的に「人さらい」のように連れ去り、強姦等の性暴力を繰り返し「性奴隷」として戦場を連れ回した―こういう虚構の奴隷物語を創作したのである。

 こうすれば、慰安婦たちを売春に関わる「不道徳感」「汚辱感」から逃すことができる。さらに「性奴隷」の主役を「少女」であるとして糾弾パワーをアップさせようとする。こうした方策を用いて慰安婦の真実を隠微し、彼女らを同情すべき存在として「聖女化」し、逆に日本軍兵士を「悪魔化」することで、一切の批判を封じ込めようとするのである。

 私たち男は一般的に弱い存在とされる女性がいれば、それに対して強く反論できないものである。しかも、一般のポルノグラフィーをはじめとしてセックス産業に興味がない男はまずいない。つまり、弱みがあるのだ。ゆえに「聖女」の応援団に対して反論しにくいし、できればそのまま素通りしたい思いにかられる。慰安婦授業肯定派はこうした私たち一般男性の心につけ込んでいる。
 では女性はどうかと言えば、一般的に女性はできればこのような下半身に関わる話には参加したくないというのが本音であり、ましてや売買春やセックスワークについて発言するのは相当に勇気がいるはずである。

 話を本題に戻そう。
 つまり、慰安婦を教えるということは当時の日本軍兵士・日本軍、日本政府、そして慰安婦本人に対しても「不道徳感」「汚辱感」を持たせることになる。
 それだけではない。
 慰安婦制度があるということは当時は売春が合法であったことも教えることになる。そうすると「不道徳感」「汚辱感」の対象は当時、売春の仕事をしていた女性、当時の買春をしていた男性、また日本社会そのもの、さらに言えば売春が行われていたすべての国々とそこの国民までも「不道徳感」「汚辱感」の対象となってしまう。
 日本の歴史どころか人類の歴史は「不道徳感」「汚辱感」にまみれた穢れたものになってしまう

 こんなことが学校教育で教えるべき内容だろうか。
 世の中の現実というものを理解している大人でさえ「不道徳感」「汚辱感」から逃れることはできないのである。
 大人はまだいい。だが、純粋な心と正義感をもつ子どもたちにこのようなことを教えれば「不道徳感」「汚辱感」は何十倍にもなることが予想される。自分の祖父母や曽祖父母たちに「不道徳感」「汚辱感」を感じるということになる。自分と血のつながった家族・先祖に対してこうした感覚を与えてしまうというのは酷というものであり、一種の虐待であるとさえ言える。
 ゆえに、教室で慰安婦を教えてはいけないのである。

2 教えてはいけない理由②―売買春はなくせない
 このように「不道徳感」「汚辱感」をみんなが感じてしまうにも関わらず、なぜ売買春それはなくならないのか?という矛盾―想定しうる子どもたちの疑問である。だが、これほど説明しにくい難解なものはない。

 小浜氏がわかりやすい言葉として使った「人肌恋しさ」と子どもに言ってみても、納得できないに違いない。そして、それは説明しようにも説明しにくいものである。ここでいう「肌」感覚とはいうのは、母親がわが子への愛情を表現するスキンシップとは意味が違う。ここで言う「肌」感覚は男女間のセックスに関わる意味合いが強く、それ相応の男女間の経験がなければわからないものである。
 ただし、そう考えてみると、子どもたちの内のややおませな小学校高学年や中学生、そして高校生たち中の何%かは、漠然とは理解できるのかもしれない。つまり、理解できるにしても個人差の大きいものなのである。

 少なくとも言えることは、これは授業として資料を読んだり、意見交換して理解するようなものとは違う種類のものだということだ。子どもたちがそれぞれの成長環境と人間関係の中でいわば自分でセルフラーニングしながら徐々に理解すればいいのであり、それがベターなのである。
 つまり、藤岡氏がいう「人間の暗部を早熟的に暴いて見せても特に得るとことはない。暗部に目をふさぐべきではないという議論もあるが、そういう類の知識は大人になる段階で自然に身につけていくものなのだ」(藤岡信勝「「従軍慰安婦」を中学生に教えるな」『諸君』1996年10月号 p64)という指摘そのものなのである。

 こうした売買春に関連する慰安婦の事実を歴史の授業内に突然持ち出してみても理解は当然不完全で、納得できる説明ができない(できるわけがない)教師に不満を持つに決まっている。むしろ、こんなことは歴史の学習にとっては不要なものでしかない。授業時数を考慮して、理解の妨げになる不要な学習内容をあえて削るのは現場教師にとって当たり前の常識である。

3 教えてはいけない理由③―再び「不道徳感」と「汚辱感」
 次に着目したいのは、小浜氏が指摘する「性」の二面性である。
 小浜氏の言うように「性」には、一方では愛という名の「正」の面があり、もう一方では人前で語るべきではないという「負」の面がある。

 当時の日本軍兵士たちは、金銭で慰安婦と性サービスを商取引をしていた。これは当時、合法である。なにもやましいことはない。だがこれは「やましいことはない」と言われてもあまり他人に話したくない「負」の面である。
 しかし、あまりにもこうした「負」の側面を強調されると元兵士の中には反論したくなる者もいる。俺と慰安婦の関係はそんな「汚い」「ビジネスライク」なものではなかった、ちゃんと愛情があったのだ、と。前者の商取引を見れば「負」だが、後者の愛情を見れば「正」である。

 慰安婦授業肯定派の取り上げる教材の問題は、このうちの「負」の問題のみを取り出し、いや、取り出すどころか「負」の面を極大化して事実とは大きく離れた虚構のエピソードを作るところにある。そして、「正」の面は「こちらの件も教えていますよ」というアリバイ作り程度に軽く扱うか、完全に無視している。

「負」の面のみ強調するのは事実に反する(虚構の「性奴隷」は論外である)。
 それは慰安婦の女性と客となる兵士に対して必要以上に「不道徳感」「汚辱感」を持たせることになり、いわれのない差別へと結び付く可能性がある。どうしても慰安婦を教えると言うならば、その存在が戦場へ赴く兵士たちの心を癒し、そこに本物の愛情が生まれたという事実もあったことを無視するわけにはいかない。

 だが、そういう「正」の面のみ強調するのも事実に反する。
 慰安婦の仕事はセックスワークである。その名の通り、金銭を媒介にして自分の性的サービスを売るのである。それは、ビジネスライクな「あくまでもお仕事」でしかない。その事実に目をつぶるわけにはいかない。そして、兵士はその性的サービスを金銭で買うのである。この行為を「性のはけ口」などと形容されることもある。
 こうして「不道徳感」「汚辱感」が生れてしまう。これもいわれのない差別へと結び付く可能性がある。

「性」の二面性のどちらを強調するにしても売買春・セックスワークという事実を教える以上は「不道徳感」「汚辱感」から逃れることはできない

 慰安婦を教室で教えるのがダメな理由をまとめれば以下のようになる。

 私たち大人と同様に児童・生徒たちも、慰安婦という売春を仕事とするセックスワーカーに対しての「不道徳感」「汚辱感」を拭い去ることができない。ゆえに、公教育において慰安婦を教えることは、まだ人としての成長過程で社会的成熟度の低い段階にある彼らに「性」に関して無用な混乱を与えることとなる。さらに「性」に関わる「人と社会」に対して間違った認識や差別感情、拒否感を持たせてしまう可能性が高い

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