「枠」の中を中から問う~学校と保健室と養護教諭と~

柏木むつき

あらためて「保健室」という場所を問う

「保健室は学校のオアシス」

noteでも以前触れたことがあるこの言葉。

この言葉は時に養護教諭を叱咤激励し、時に養護教諭を悩ませてきた。

同時に、この言葉は「学校」という場を長年にわたって不変のものとしてきた言葉でもあるだろう。

それはなぜか。

「オアシス」であるために養護教諭が守り続けたものが、

学校をいつまでも「砂漠」のままにしてしまっていたから。

私はそう考えている。

もちろんそれは決して養護教諭の「悪意」でも何でもない。

ひたすらに、目の前の仕事と向き合ってきた結果であるし、

その功績を決して否定はしない。

そのおかげで「私」も形成されたのだから。


ただ、私は思うのだ。

「保健室」は、「学校」という場所に「包摂」されながら、

「教室」という空間から「排除」されている場所なのか。

「保健室」は、「学校」という場所に「包摂」されながら、

「教室」という空間からも「包摂」されている場所なのか。

そしてそれは、子どもたちにとって「包摂」なのか「排除」なのか。

それはまた、「包摂」が子供たちにとっての「排除」になっているのか否か。その逆なのか否か。

それともそれ以外なのか。

そしてさらに、そこにいる(とされている)養護教諭にとっては…?

私の保健室に対する問いは尽きない。

教育のオンライン化と「保健室」

昨今の社会情勢も相まって、

教育のオンライン化が今まで以上に叫ばれている日本。

以前、以下のブログで少し触れたのだが↓

学校に通うことがスタンダードではなくなった時、養護教諭ってどうなるのだろうか。

(それは今の学校では良くも悪くも「保健室はどうなるのか」という問いと一致するのだけれど。)

海外でオンライン化が進んでも養護教諭の職務に支障がないのは、

そもそも養護教諭という職種がないから。

養護教諭という教育職種は日本固有のものだから。


もちろん、

今の養護教諭の役割(賛否あると思うけれど、社会のニーズも含む、という意味で)を前提とした上で、

オンライン化の教育現場に「合わせる」のも一つの方法なのだろう。

しかしその一方で、

そもそも今現在果たしている役割そのものを、一旦、問い直していく。

その上で「枠」そのものを刷新していくということ。

そんな視点も必要なのではないだろうか。


「枠」の中を中から問うということ


養護教諭という職種は(略)
日本にしかない教育関係職種です。
それをこれまでは称賛の視点から見ていくことが多かった。(略)
だけれども、「称賛」からだけでは見えてこないものもあると思うんです。
誤解を恐れず言うならば、
日本にしかいないということは、
海外では誰かが、何かの制度が、社会が…その役割を担っている、
と言い換えることもできると思います。
(そこに不足や課題はあるかもしれませんが。)
そのような視点で見ることも、
これまでの前提とは異なった課題が見えてくるきっかけになるのかもしれません。
(「称賛」だけでは見えてこないもの。より)

これは「養護教諭」だけの課題ではなく、

学校全体、社会全体の課題でもあるのだろう。

「枠」の中のことを中から問うこと。

それは例えば、

「政治」の在り方であったり、

「家族」の定義であったり、

「働く」という意味であったり。

ジェンダーや共生、多様性、人権、国際理解…。

きっとどこの分野で、どこの領域で切り取っても、

必要な作業として今目の前に立ち現れている気がする。


奇しくも現在のこの社会状況は、

スクラップ&ビルドの萌芽的側面が描き出されようとしている。


「I’m wishing that all hospitals disappear.」

これはかの有名なフローレンス・ナイチンゲールの言葉である。

看護師として、看護教育者としての高い貢献を果たした彼女が、

「私はすべての病院がなくなることを願っています。」

という言葉を残していること。

ここに、「枠」の中を中から問う真髄があると思うのだ。

もしも彼女が看護師という仕事の表面的な事象だけを見て、

「看護師称賛」だけの視点であり続けたならば、

冒頭の言葉は生まれてこなかっただろうから。


それはきっとこの記事で書いたこととも類似しているのかもしれない。


おわりに~「枠」の中を外から問う~

私は「養護教諭」という視点から、

養護教諭を問い直し、保健室を問い直し、

その先にある学校や社会の在り方を問い直したいと考えている。

きっと、他領域でも似たような関心を持っている人がいるはずだし、

実際にそのような問い直しは水面下も含めて、

今現在進行形で行われているのだろう。

だからこそ、

「枠」の中を外から問う、そんな動きにも言及したい。


「枠」の中を中から問うことも、外から問うことも、

それは対立するものでも対極にあるものでもなくて、

中にあったとされるものにも、

外にあったとされるものにも、

「枠」の解体や解放といった以上の化学反応が生まれるのだろう。


社会は今、「枠」を超えて、国境を超えて、人種を超えて、大きく変わろうとしているのだから。
















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