学校が「オアシス」であるために。~保健室の〈あいだ〉をデザインする~

「保健室って学校のオアシスだよね」

養護教諭だった一年目の私は、この言葉にとても喜んだ。

それは養護教諭としての私が存在していることを

肯定してくれる(ように聞こえる)言葉だったから。

「保健室って暇だもんね」

「担任を持たないって楽で良いよね」

「養護教諭って大変じゃない?」

「保健室が閉まっていると困るんだよね…」

「養護教諭なんだからもっと優しく接してあげて」

「養護教諭のくせに出しゃばらないで」

「担任じゃないのに口出ししないで」

「健康診断、めんどくさいんだよね、正直」

「学校保健のことは任せるわ」

「生徒の悩み相談?養護教諭の仕事でしょ?」

養護教諭に対するイメージは人それぞれだ。

きっと多くの人は、小中高で3人(多くても6人ほど)の養護教諭にしか出会っていないだろう。

養護教諭のことを覚えている人もいれば、記憶に全くない人もいる。

テレビや漫画の影響もあわさって、まさに十人十色のイメージがあると思う。

それは教員の中に限定しても同じだ。

そして…養護教諭自身の抱くイメージも。

そんな沢山の人たちの養護教諭に対するイメージ、

そして何より自分自身が創り上げてしまった養護教諭像に苦しめられ、

周りの言葉に一喜一憂していた新任時代の私。

「先生が出張でいないとみんな困るんですよ。」

そういう管理職の言葉に対して

「私は頼られている」

と嬉しくなったこともある。

だって、先輩の養護教諭たちがいつも、

「あ~私がいないと学校って回らないんだから」

「今日の出張終わったらまた学校に戻らないと。」

と嫌そうに、でもちょっと嬉しそうに誇らしげに言っているのをいつも聴いていたから。

しかし私はある日突然、「オアシス」を創ることが苦しくなった。

学校は「砂漠」なのか

職員室の先生から認められたくて、

専門職として評価されたくて、

私は自分自身の保身のために「オアシス」を創っていただけなのではないだろうか…。

そんな葛藤が続いた。

中々理解されない職務。

一人でこなさなくてはいけない(と思い込んでいた)日々の仕事。

連携とは名ばかりの対立。

疎外感、孤独感、無力感…。

今となっては全部自分の思い込みだったし、

自分が周りの目を気にして自分を犠牲にしていただけなのだけれど、

その頃の私は自分の存在意義を模索し、

養護教諭としての自分を求め続けていた。

だからこそ、

自分自身が仕事をしているためには

生徒が保健室にいることが必要だったし、

子どもの意向よりも担任の顔色ばかりを伺っていた。

その方が私にとって都合が良かったから。

でもある日思った。

「保健室が"オアシス"ということは、

学校は"砂漠"ということなのだろうか」

「保健室があることで、

学校が"砂漠"であり続けているのではないだろうか」

そんな考えが頭の中をまわり始めた。

「先生が出張でいないとみんな困るんですよ。」

そんな言葉ももはや私の中でほめ言葉ではなくなった。

「私一人がいなくて困るような保健室の体制をつくってきたのは、

養護教諭としての怠慢だ」

私は「あなたが必要」という言葉が欲しくて、「保健室」を独占していた。

今なら分かる。

本当に必要なのは、

私がいなくても学校が困らない「保健室」をつくることが、

養護教諭としての仕事なのだと。

そして私は、養護教諭という肩書き以上に「私」という存在なのだと。

「不在の存在」という曖昧性

「本当に子どもたちにとって必要な"オアシス"は何だろうか」

「そのために保健室は、養護教諭はどう在ることが望ましいのだろうか」

正直、今もその答えは出ていない。

気づけばその答えを求めて大学院生活も5年が経過してしまった。

ただ、今の時点で感じていることは、

曖昧性を引き受けながら養護教諭は存在して良い、ということだ。

それは曖昧さが残るゆえに「私」が立ち現れることで「不在の存在」を創り出すということ。

私がその場に不在であっても保健室がちゃんと在り続けることが、

本当の意味での「存在」だろうし、

究極のところ、保健室がなくても学校が"オアシス"であるならば、

今のシステムの中で存在する養護教諭はいなくても良いのかもしれない。

〈あいだ〉に立つ

保健室という場所が、学校の中で〈あいだ〉のものとなる時、

学校は「砂漠」から抜け出せるような気がする。

その時、養護教諭は「不要」なのではなく、

〈あいだ〉といういわば境界線の上に立つ存在であることが求められるのだろう。

それはもしかしたら、

男女の境界線かもしれないし、

医療と教育の境界線かもしれないし、

担任と担任じゃないものの境界線かもしれないし、

教員と保護者の境界線かもしれない。

そして…教員と子どもたちの境界線かもしれない。

それはきっと学校空間に〈余白〉をデザインする可能性を

見出すことでもあると思う。

理論と実践の〈あいだ〉で

養護教諭として勤務してきた実践経験と、

大学院で教育学を学んでいる経験。

今の私は理論と実践の〈あいだ〉に立つことで、

自分の存在の曖昧性を引き受けながら、

新しい養護教諭像を模索している。

養護教諭の抱える悩みは、

保健室の中でとどまるのではなく、

教室、学校、地域、社会の課題と繋がっていると感じるからだ。

養護教諭のまなざしで学校を砂漠からオアシスに。

学校が転換期にあると言われる今、

改めて「学校」という場が問い直されている今、

そのまなざしが、

養護教諭だけに独占されるものではなく、

もっと拓かれていくことを願って。




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