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縁は異なもの


 ラッキーとアンラッキーは人生のあちこちに散りばめられていて、ほんの少しのきっかけでどっちに転ぶかわからない気がする。

 ラッキーがこっちに向かって来てくれた時に、それをきちんと受け止められるような自分でいたい。せめてその地点に立つことが相応しいと認めてもらえるように日々磨いていよう。そう思っている。

 私が卒業してはじめて就職したのは、とある自動車業界の会社であった。運命というのは不思議なもので、私がその会社の面接を受けに行ったのは、偶然が重なったまさにラッキーだった。

 当時、英文科出身の就職率はかなり良かった。英文科を選んだのも単に第一志望の国文科を落ちたからだったが、就職に関しては断然こちらが有利だった。

 英米文学を専攻して、希望通り本ばかり読んでいる学生だった。教職を取るわけでも、商業英語を学んだわけでもない私は、なんとなく肌の合いそうなメーカーと保険会社に的を絞って就職活動を始めた。解禁になってから数社回り、幾つかの会社に落ちたり、二次・三次面接に進んだりしていた矢先のことだった。

 ぽっかりとその日の午後だけスケジュールが空いていた。

 就職資料室で会った友人たちが、これから自動車会社を受けに行くという。私は高嶺の花だと思って候補に考えていなかった。しかも認識不足で車の販売系の仕事だと思っていたら、
「何言ってるの、メーカーだよ。宣伝とか広報とか興味なかったっけ?」
と言われて、勝手な思い込みで除外していたことを、その時に知った。

 その日もスーツは一応着ていたし、履歴書も持っていた。腕試しにいいかなと、慌てて資料を読んで志望動機を考えて、彼女たちに付いていった。

 成績表と自己紹介カードを渡して控室で順番を待つ。自社ビルの地下の部屋はだだっ広くて、何百人もの女子が集まっていた。

 集団面接は確か五人くらいずつだったと記憶している。面接官も五人でお偉方から若い社員までいた。
 自己紹介と学生時代に頑張ったことを一人ずつどうぞと言われ、私はぴあで働いていたバイトの話をした。後になって、英語でどのくらい頑張ったかとか話すべきだったのではと思ったけど。他にいくつか質問されて、あっという間に終わってしまった。

 夕方に人事課から電話がかかってきた。
「貴方は内定致しましたので、後日会社にお越し下さい」
 は?と耳を疑った。 普通、面接は二次どころか、三次、そして最終の役員面接を突破するのが常識と言われていて、たった一回の面接で内定が決まるなんて話は聞いたことがなかった。他で進めていた会社を本当に断っていいのか、だいぶ疑ってしまったが、とりあえずここ一本に絞ることにした。

 入社してからわかったことだけど、そこの一次面接にはすでに役員も人事課長もいて、たった一回に決定権がゆだねられていたのだ。色んな会社があるものだ。人事を決定するトップ3が、それぞれ推す人間を選んだらしい。

 たとえば、人事課長が選ぶのは、美しく立ち居振る舞いのきれいな、いわゆる秘書、受付、人事課に配属されるタイプの人。

 人事次長は、即戦力、仕事がテキパキできる、華やかな宣伝部、広報部、海外営業部、等々を選出。

 そして、もう一人ちょっと癖のある不思議な人事担当者。お察しの通り私はこの人に拾われた口らしい。どこを気に入られたかは謎だけど、何かピンと来たらしいんだな。分析不可能。

 なにせゆるーくバイトで楽しかったことと少し工夫したことを話しただけだ。一つだけ思い返してみると、面接で同じグループに自己PRのものすごい熱烈な人がいた。 気持ちはわかるが、いくらなんでも協調性なさすぎだろう。自分が、ばかりで熱量が半端なかった。
 逆に私の番ではチカラぬいて自然に話せてしまったのかもしれない。ある意味あのすごい人のお陰でこちらは落ち着いて見えちゃったのかもしれぬ。

 一緒に行ったクラスメイトの中で私だけ受かってしまったので、パフェを奢らされた。はい、ありがとうございます。恩に着ます。
 という私は全てに勝手な人間だ。でも、友だちは大切に思ってる。

 そして勿論、ラッキーだけじゃなく色々泣いてるから、人生はプラスマイナスゼロか、ちょっとプラスが多いくらいだと思っている。今のところ。

 社会人として、働くこと、仕事に責任を持つことを学んだ最初の一歩。

 私はその会社で輸出部門に配属が決まった。英文科だけど英会話に自信がなくて国内部門を希望して逃げていたのに、ああヨーロッパ部とは。頭を抱えたが、こうなったらやるしかない。

 私の所属先のヨーロッパ部第一課は、イギリスを中心にアイルランド、ギリシャ、イタリア、スペインを担当。私は入社当時はキプロス。 どこにあるか地図で確かめるまで知らなかった。

 とりあえず英文のタイピングは速かったので、なんとか面目躍如。でも、夕方からひっきりなしに鳴る電話にはいつもどっきどきだった。ハローと言われると硬直状態。別に取り次ぐだけなのにね。担当者がいない時の伝言は心臓ばっくばく。

 当時運転免許を持ってなかった私は、車の部品名も知らない。バンパーがどこかもわかってないど素人の試練は続く。宣伝部にカタログをもらいに行って、パンフレットと英文表記の部品名を照らし合わせて、日夜学習。

 ここでのビジネス文書作成や、基本マナーはその後の全ての仕事に役立っている。他の会社に行くと、自分では当たり前のようにしていることに驚かれたりして、叩き込まれたことがきちんとしていたことを知る。

 どうしたら作業効率が上がるか考えたり、もっと知りたいことがあったら自ら飛び込んで仕事をゲットすることも覚えた。自分の担当じゃない価格設定のプログラムに興味があって使えるようになったら、すごく重宝されて自分の強みになったりした。

 一課は二つのラインで総勢十二人。男性の国担当に、女性のアシスタントがつくシステム。私の直属の上司は、イギリス担当で理路整然と指示を出してくれる仕事ができそうな人。
 そして、最初に組んだのがこの人で本当に良かったと思った。系統立てて物事を進めることを教えてくれた人。

 最初に言われた。「この資料、何のために作ると思う?」って。
 見たまま数字を作ったり、英文を打ったり、ただこなすだけだった私は全然答えられなくて。何か新しいプロジェクト始める時に、その人は必ずその意味を説明してくれた。
 周りに聞いたら、そういう担当者は稀有だったみたい。機械的に何かするのではなく、その先のことをきちんと考える癖がついた。

 そして何より、色んなタイプの人が会社にいて、話すのも楽しかった。いっぱい人生勉強になったよ。
 忙しくて平日はデートする暇もなかった。会社帰りに待ち合わせ、したかったな。受付や人事の美人たちは、いつも定時に帰っていやがったな。こちとら時差のせいで、夕方から仕事が本格化するんだもん。海外の事務所や代理店が始まる時刻だ。

 いや待て、そう言いつつ、かいくぐって合コンは行っていたような……。でも、私のモテ期はこの会社を辞めてからなので、やめるのもまた良しだったな。

 そこで一緒に働いた人たちは、同期も先輩もめちゃめちゃ個性的だった。散々残業帰りに飲み食い、あらゆる事象を語り合ったな。池袋界隈を開拓する「池袋会」の先輩たちは特に気が合ってだいすきだった。いい時代だったな。

 同期とは今もなかよしで、この前も折角のおしゃれな表参道のランチのお店で、腹筋が痛くなるくらいに笑い過ぎて、転げ回って死にそうだった。外のテラス席にしておいてよかったね。どう考えても私たちうるさ過ぎだよね。

 会社も人と同じ、縁だと思う。この後も、色んな会社を受けたことがあるが、どうしても入りたくて熱望しても最終面接で縁がなかったり、変に気が合ってすぐに気に入られちゃったり、全く意のままにならないのも、人と同じである。

 人との出会いも縁。出逢いは不思議だ。このタイミングがなければ違う道を歩いていたはずだ。でも、待っていても何も起きない。小さくていい、何かアクションを起こしてみよう。



「水無月の残り香」 第24話 縁は異なもの
 はじめて勤めた会社の同期の友人は、今も宝物です。
 笑いも悲しみも共有してきた。それは一生涯、変わらない。


> 第25話 徒然なるままに京都

< 第23話 記憶の在り処

💧 「記憶の本棚」マガジン

いつか自分の本を作ってみたい。という夢があります。 形にしてどこかに置いてみたくなりました。 檸檬じゃなく、齧りかけの角砂糖みたいに。