8 ストラトフォード・アポン・エイヴォン 天使②
「面影を追い続ける男」 8 ストラトフォード・アポン・エイヴォン ー天使②ー
見上げた彼女に向かって「宿を探しているの?」と更に英語で訊ねた。
自分は日本人だが、しばらくイギリスに住んでいるので日本語は少ししか知らないと説明した。
彼女は目をまるくして、言葉を選びながら英語で答えた。
「今までは、宿は観光案内所で予約してもらっていたんです。今日は初めて自分の目で見て気に入ったところにしようと思って。でもたくさんあって決められなくて」
きれいな発音だった。
「何往復もしてるのをずっと見てた」
見つめていたのはこれが初めでではないけれど、と思いながら。
彼女は恥ずかしそうに頬を少し朱く染めた。
「あなたの部屋はどうですか」
「外観から想像できる通り、綺麗な部屋だよ。俺には似合わないけど、君には勧めるよ」
彼女は素直にうなずいて、玄関の呼び鈴を鳴らした。
二つ隣の部屋に決めた彼女は、荷物を降ろしてから俺の部屋をノックした。どうぞと言うと、そっとドアを開けて中を覗き込んだ。
そして、困った俺の顔と部屋を交互に見てくすくす笑った。
よかったら街に出ないかと誘い、宿を出て、賑やかな方へ歩き出した。
「俺はトキタ・ツカサ」
「時田司? 本当に日本人の名前ね」
「君の名は?」
「サキタ・ムツキというの」
「ムツキは六月に生まれたから?」
「ああ。一月の別名を睦月《ムツキ》というの」
「そう。いい響きだね」
彼女は手帳とペンを取り出して、「咲田睦月」と書き付けた。
「漢字はわかる?」
「少し。田は俺と同じだ」
「こう書くの」
「月はわかる。ムーンでしょ」
*
睦月は、彼の存在感に圧倒される自分を感じていた。
長身でスリムな体を黒い服で包み込み、それが細く長い指先を際立たせていた。
少し癖のついた細い黒髪。頬骨が出たきつめの顔立ち。少し上がった目が強くて、上から見下ろされると動けなくなる気がする。
鋭いナイフのイメージ。ささやくような低音の声はとてもよく響く。今まで出会った誰にも似ていない。
きっと、この人には深くかかわらない方がいい。
そう思うのに、下向き加減の横顔が美しい。時々見せる笑顔は優しさを含んでいて目が離せなくなった。
ひどくアンバランスなんだ。何者もよせつけない繊細さと、どこか引き付けられる強引さが同居している。
*
「どこに行きたい?」と聞くと、彼女はすかさず、「シェイクスピアのお墓」と答えた。
俺たちはシェイクスピアの生家に向かっていた道を曲がって、ホーリー・トリニティ教会へ向かった。やはり生家の方が人気があるらしく、こちらの道にはあまり人が歩いていなかった。
教会はとてもシンプルな印象だった。白く細長い屋根のひっそりした建物。門から入口の扉まで細い木々が生い茂り、薄緑色のトンネルが続いている。門のところで立ち止まり、彼女の後姿がそれを抜けるのを眺めた。
先に入った彼女は入口で神父と挨拶を交わしている。寄付金の二十五ペンスを払う。
「学生は十ペンスでいいなんて神父さん言うのよ。私これでも二十五才なんですけどって言ったら、本気で驚いてるの」
彼女は複雑だわと拗ねてみせたが、「俺も驚いた」と言うと、笑いながら肩をすくめた。
いつか自分の本を作ってみたい。という夢があります。 形にしてどこかに置いてみたくなりました。 檸檬じゃなく、齧りかけの角砂糖みたいに。