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10 レイク・ディストリクト 二人の過去②

「面影を追い続ける男」 10 レイク・ディストリクト ー二人の過去②ー


 十一時に、ワゴンは私たちの他にアメリカ人夫婦と、ベルギーから来た母子を乗せて、湖水地方一周に出発した。

 兄のグレンは、曲がりくねった狭い道を慣れた手つきで運転し、すれ違う車への譲り方も実に紳士的だった。
 低くあまり抑揚のない声で、周りの景色についてぽつぽつと語る。その語り方は、石垣に囲まれた家や紅葉の木々のトンネルを通り過ぎる景色にすぅっとなじんだ。

 ピーター・ラビットの作者ベアトリクス・ポターの家があるヒル・トップ付近は、まるで絵本の中と同じでのどかだった。
 庭の花に夢中になっていると、ふと彼の姿がないことに気付き、外に探しに出た。彼は野原の囲い沿いの小道をゆっくり歩いていた。

「ツカサ!」
 彼を呼ぶと、野原に居た数十頭の羊たちが一斉にこちらを向いたので、私はまさかこの羊たちの名前は彼と同じ、などと馬鹿げたことを一瞬思ってしまった。
「凄いだろ、こいつらの目力。さっきまで全員、俺の一挙一動に注目が集まってたんだ」

 私たちはそれから、二人が別の方向へ同時に動いたらどうなるかとか、走ったらとか、一度静かに屈んで突然立ち上がるとか、様々な実験を試みては楽しんだ。

 意外にもこもこの羊たちは、視線が鋭かった。
 誰も可愛くメェなどと鳴かず、無表情に顔の向きだけを私たちのいる方向に向けた。(別方向に同時に動いた時は、全羊が司の方に向いた。)
 蝋人形のようであり、ロボットのようでもあり、人間なんて別に珍しくもないさと言っているみたいだった。

 ふと、初めて彼の名前を呼んだことへの彼の反応を観察できなかったなと思った。

 三時にはテラスでツアーの人々と長いテーブルに座り、アフタヌーン・ティの時を過ごした。
 歯応えのあるパンとクッキーの中間のようなスコーンに、好きなだけクロテッドクリームとジャムをつけて食べる。イギリスでは<クリーム・ティ>と呼ばれている。

 私はおいしさに感激しながらも、隣の司の手ばかり見ていた。
 彼はとても器用にスコーンにナイフを入れ、削るようにクリームだけのせる。筋が綺麗に浮き出る手の甲と、優雅に動く細長く力強い指に、目が釘付けになった。

 小高い丘でグレンが車を止め、ここからの眺めは最高だと説明した。
 全員車から降りて、その素敵な光景を見降ろす。
 川がくの字型に曲がり、その周りを赤茶けた芝のような木々たちが取り囲んでいる。水はとても冷たく深い色を放ってはいるが、ここの自然はかなり人の手によって保護されていることを伝えていた。

 ベルギーの母子に頼まれ、記念写真のシャッターを押す。
 じゃあ、あなたたちも並んでという言葉に司がどう答えるか一瞬緊張した。写真を撮られたくない人種が、理由は様々だが一定数いることを知っていたから。

 彼は別にためらう様子もなく私の背中を軽く押したが、わざわざ私の右側に回って立った。そして二人の身長差をうめようと膝を曲げた。
 私はにっこり笑いながら、さっき羊たちの小道を歩いた時にも、彼が右側に回ったことを思い出していた。
 そういえば今までもそうだったかもしれない。
 偶然? 彼はこの些細な癖に気付いているのだろうか。



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⇒ 「面影を追い続ける男」 目次

いつか自分の本を作ってみたい。という夢があります。 形にしてどこかに置いてみたくなりました。 檸檬じゃなく、齧りかけの角砂糖みたいに。