五年前の日記

 ルールを破った人には罰が与えられる。法律とはそういうものであり、学校にもその学校なりの法律というものがある。
 たとえば、一学期隣の席だった前田灯夜君という男の子は、掃除の時間に友だちと箒でチャンバラをして、真面目に掃除をしていた女の子の頭に箒の先をぶつけてしまい、怪我をさせた。その結果、先生から二時間ほど放課後に説教を食らったうえに、女子たちから盛大に非難され、クラスの女子たちからは全く話しかけてもらえなくなった。彼はそれ以来掃除の最中に危ない遊びはしなくなったが、その代わり乱暴な言葉で女子の悪口を言うようになった。当然、先にそうしたのは女子たちなのだから、彼の方にも多少の正当性はあるわけだ。彼は、友人たちにそう主張する。盗み聞きをする私も、それには内心で頷く。
 でも、そもそもなんでそんな、いがみ合わなくてはならないのだろう? たしかに掃除の時間に掃除をさぼった挙句、危ない遊びをしてクラスメイトを傷つけたのは、悪いことだ。でもそれをしたからといって、なんでクラスメイトから顔とか性格とか、関係のない悪口を言われなくてはならないのだろう? なんで、クラスメイトから関係のない悪口を言われたくらいで、女子全体を敵に回すような悪口を大声で言いたくなってしまうのだろう? どうして人間は、人にされて嫌だったことを、誰かに仕返しせずにいられないんだろう?
 この世の中が狂っているのか、それとも人間そのものが狂っているのか。いや、きっと私がおかしいんだろうな。百円払って自動販売機からジュースが出なかったら怒るように、自分が傷ついたのに何も出てこなかったら悔しいのかな。でも悔しいからといって、自販機を蹴ってもジュースは出てこない。人を傷つけても自分の傷は癒えない。少なくとも私は、誰かを傷つけても、嫌な気持ちになるだけだ。自分が傷ついて、人を傷つけたら二倍辛い。私がおかしいの?


 夏休みの自由研究、私は「悪文ばかりの新聞」というテーマで提出した。
 お父さんは有名な大学の教授で、その影響で私は幼いころからたくさんの文章に触れてきた。何がいい文章で、何が悪い文章かはわかっているつもりだった。だから、お母さんがいつも読んでいる新聞を見るたびに「なんでこんなひどい文章を読んで平気でいられるんだろう」と思っていた。そういう経緯で、新聞の文章がいかに酷い文章であるか徹底的に述べてみようと思ったのだ。

 世間一般で言われている悪文とは「伝わらない文章」「つまらない文章」「まとまりがない文章」である。私はこの三つの特徴をひとつずつ分解し、解説した。そして各社の新聞の文章を例に出して、明らかに「伝わらない」「つまらない」「まとまりがない」と思われる個所を指摘していった。
 自信はあった。他に同じことをしている人はいないだろうと思っていたから、独創性という点でも期待していた。お母さんは何も言わなかったけれど、お父さんは褒めてくれたし、きっと学校の先生も高く評価してくれるだろうと予想していた。でも実際は、ダメだった。
 A、B、Cの評価段階で、私の自由研究はB評価だった。「よくまとまっているけれど、主観的すぎるかな。(主観的:睦月さんらしいものの見方)もっと他の人の意見も聞けたら◎」という評価をいただいた。私は抗議しようかと思ったけれど、やめておいた。話が通じないような気がしたからだ。

 家に帰ってからお父さんにその話をすると「世の中なんてそんなもんだ」とだけ冷たく言われた。私はただ、抱きしめてほしかったけれど、抱きしめてくれる人がいなかったので、布団にもぐって一人で泣いた。頑張ったのに。思ったことを、できる限り他の人にも伝わるように工夫もしたのに。でもやっぱり私がおかしいから仕方ないのだと、そう思った。


 そんな悔しい気持ちで始まった小学五年生の二学期の中頃、ひとつ事件があった。向田真理也という男の子が、トイレで汲んできた水を教室にぶちまけたのだ。
 向田君のことをしつこく「まりちゃん」と呼んでからかってきた友人の靴に蛙やコオロギの死骸を隠したのがきっかけだった。向田君は普段大人しい性格で、少々ぼんやりしているところはあるけれど、喧嘩は全くしない子だった。自分の女の子っぽい名前をいじられるのが大嫌いで、それまでずっと我慢してきたのだろう。
 先生はその件で学級会を開き、結果として向田君は吊し上げられることになった。友だちの靴の中に気持ちの悪いものを入れた、というのは先生にとって許しがたいことだったみたいだ。
「ちょっと名前をからかわれたくらいで」という先生の言葉が私の耳に嫌な感じを残した。向田君は皆の前で一時間ほどずっと泣いていた。私はいてもたってもいられなくて、どうにかしたいと思ったけれど、その教室の意味の分からない黒ずんだ空気の中では立ち上がることはおろか、手を挙げて発言することすらできなかった。そんなことをしたら、この教室にいられなくなるような気がしたのだ。恐ろしかった。でも、恐ろしさ以上に、その恐ろしい空間でしか生きられない自分自身が嫌だった。
 学級会の時間が終わり、十分休憩になると、すぐに教室は笑い声でいっぱいになった。好きなテレビの話、ゲームの話、動画の話。誰も向田君を慰める人はいない。私も、友達に話しかけられてしまったから、そちらの相手をしていた。視界の端で、向田君が別の友達にからかわれているのを見た。叩かれているのを見た。なんでそんなことをするのかわからなかったけれど、友達が私の好きな本のことを話題にしたから、私はそちらに注意を向けた。きっと私も同罪なんだろうなとちらと思った。
 何日かたったあと、何の脈絡もなく向田君は教室に汚い水をぶちまけた。ひどい匂いがした。皆が向田君を憎んでる感じがした。私はなんでこんなことになってしまったのだろうと思った。

 家に帰ると、お母さんが国会中継を見ていた。献金問題か何かのことで、答弁をやっていた。口汚い言葉で大の大人が人を罵っている。国の大事なことを決めるような場所で、寄ってたかって一人の人間を傷つけるようなことが正当化されるんじゃ、学校で同じことが起こっても仕方ないか、と私は思った。
 いくら悪いことをしたとしても、集団でひとりを悪く言うのはおかしいと私は思うけれど、その考え方はおかしいみたいだ。
「犯罪者に情けをかけるのは犯罪者を育てるのと同じだ」と誰かが言ったのを思い出した。だからって……ひどいじゃないか。
 あぁ、私はいつか犯罪者になってしまうかもしれない。悪いことをした人をいじめることも悪いことだと思う私は、おかしいんだろうな。誰も悪くないのか、それとも誰もが悪いのか、私には分からない。
 向田君はみんなを不愉快にさせた。大事にしているカバンに嫌な臭いがついて、泣いてしまった子もいた。向田君は教室の秩序を乱した。確かに向田君は悪いことをした。でも最初に向田君の名前をからかった子に罪はないのかな? 向田君だけを責めて、一時間もの間ずっと酷い言葉をかけた先生には罪はないのかな? そんな状態をほったらかしにした私や他のクラスメイトには? 
 あぁ、吐き気がする。罪悪感というより、何か……何か汚いものと一緒に生活しているような感じがする。汚いのはどっち? 私なの? それとも「みんな」?

 ともかくそれから一か月経った。向田君は今、学校でいじめられている。私は何もできない。生きていくのは辛いなと思った。


 臭いものにふたをしたら、きっとそのふたの下で匂いや汚れは熟成され、いずれ外に漏れだすだろうなと思った。もうすでに漏れだしているんだろうなと思った。私はこの世の中の匂いに吐き気がする。私はまだ子供で、社会のことなんてほとんど何にも知らない。将来の夢もないし、友達だってそんなに多くない。お父さんの職業柄、おうちには色んな人が訪ねてくるから見識は広いつもりだけれど、ほんとはそれもちょっと怪しい。
 とにかく私は早く大人になりたい。大人になれば、この辛い気持ちも少しは楽になるような気がしたから。でも、お父さんやお母さんの様子を見ていると、それも嘘なんじゃないかと思う。

 この社会とか民主主義とか男女平等とか、命とか絆とか、なんだか汚れた言葉みたいに響く。もうどうしようもないものみたいに思える。お腹が痛いし頭も痛い。

 私はどうすればいいんだろう? 誰か教えてください。でも、そうやって人任せにして、自分で考えることをしてこなかったから、おかしくなってしまったのかもしれない。ん? おかしいのはどっち?
 せめてそれだけでも、私は知りたい。知ってから、大人になりたい。私がおかしいのか、「みんな」がおかしいのか。
 それとも、正しさを決めるのはいつだって多数決で、「みんなじゃないものは全て間違っている」のかな?
 もしそうなら、そうであることを確信してしまったなら、私は大人になる前に死のうと思う。


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