すぐ飽きる理由と原因


 なんかふと「note飽きたな」と思ったので、それにまつわる話。

 自分が飽き性であることについて、色々考えていたのだが、ひとつ納得できる思い付きがあったので、それを軸に考察していく。

 つまり「刺激に慣れてしまった」ということなのではないかと思う。

 人は快楽を自然と追及してしまう生き物だが、私は割とその気が強い。勘違いを恐れず言うのならば、私は心と体の感度が高い。

 ゆえに、強い刺激を体全体で楽しんだ後、それを繰り返し味わって、なんだかそれが特別な刺激ではないことに気が付いたら、それとは自然と距離をとるようになる。

 快楽ベースで物事を進めているがゆえに、すぐに飽きるのだと思う。

 まぁ、言葉は悪いけど、つまり私は何をしてもいても「オナニー」であるわけだ。いやーん。そりゃ飽きるわ。

 で、逆に物事を続けられる人ってどういう人かっていうと、そもそも快楽ベースで物事を進めていない。確固とした「目標」があって、それ以外のことはほとんど考えず、それに向かって進むこと自体に喜びを感じている。そこに「快楽」への意識はほとんどない。あるいは、別のもので快楽を満たしている。セックスとか、酒とか。

 私の場合は純粋に慢性的な欲求不満なのかもしれない。だから、自分の好きな事や楽しい事自体に、快楽を求めてしまって、感じにくくなってくると、別のものに移りたくなるわけだ。快楽になれてしまうから。

 満足しているから辞めるというより、それだけで満足できなくなるから、他のものを求めるがゆえにやめてしまう。

 納得だね。

 まぁ逆に考えれば、快楽を強く感じ、すぐ慣れてすぐ飽きるという特徴は、ひとつの物事に固執したり依存しない、安定した性質であるともいえる。精神は極めて自立しているし、酷いことを言われたりされたりしても、憎しみはすぐに小さくなってくれる。憎むこと自体に、すぐに飽きちゃうから。

 で、大事なのは私がこの先自分をどうしたいかという話。
 「何かを続けられる自分になりたいか」
 「自分が生涯をかけられる何かを見つけたいか」
 「社会的な成功を得るために、楽しくなくても続けるだけの根気が欲しいか」
 「そもそも社会的な成功が欲しいか」
 うーん……NO!
 私は結局根っから道楽者で、自分が楽しいことがいつだって能動的行動の条件になってるから、私は自分の自分らしさを歪めてまで、そういう「普通の人が欲しがるもの」は欲しくない。

 私は考えるのが好きだし、何もしてなくても自動的に頭が回る性質だから、文章は次から次へとほったらかしにしてても増えていく。noteを見てくれる人が増えたり減ったりして一喜一憂するのは飽きたけど、まぁ更新は続けると思う。
 note用に(つまり見てる人のために)書くのはやめて、もっぱら自分のために好き放題書いたやつを、投げ捨てる形式になると思う。
 なんのためにって言われたら、もうね。性欲ってことにしていいと思う。これに関しては、本当に多分、見てもらいたいだけだと思う。あるいは何かしらの可能性にかけているのかも。何もしないでいるよりは、何かが起こる可能性があるから、何のエネルギーも使わずできるなら、とりあえずしておくか、というそういうこと。

 にしても最近、自分の文章読み返すことが多すぎて、他人の文章を読むこととのバランスが若干崩れてるから、積極的に本を読もうと思う。基本は再読という形になると思うけど。

 読書感想文増やしてもいいな。哲学書の感想文をユーモアたっぷりカジュアルに書くの、多分楽しいし。


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