自分のやりたいことは何か

 節目でもあるので。

 人生における目標、というのは定める気にはなれない。ただ自分の中で抱いている憧れや強い想いは、わざわざ言葉にして掲げる必要のないものなので、今は気にしないことにする。それに至るための道筋も、私には見えていないし、考えれば考えるほどドツボにはまっていくから。

 今の自分が何を求めているのか考えよう。遠い将来のことや理想の話ではなく、現実的に、自分がどうしたいか。

 安心して生きていたい。不安はあってもいいけれど、その不安に怯えて生きていたくはない。体がかちこちに固まって、毎日を恐ろしいものとして感じながら生きていたくない。
 明日を呪うことのない人生を過ごしていたい。必死に生きていないといけない、とか、進歩していないといけない、とか、そんな風に自分自身に過度な圧力をかけて生きていたくはない。
 自分が何をやっていても「お前は自分のやるべきことをやっていない」なんて思いながら生きていたくない。

 でも私には、その「やるべきこと」が何なのか分からないのだ。その時自分がやりたいことをやっていても、なぜか私の頭には疑問と苦しみが湧き上がってくる。うまく動けないんだ。

 やりたいことが何なのか分からない。


 私は自分の書いた文章が好きだ。特に物語が好きだ。感情的なものが好きだ。美しい感情が好きだし、生きている感情が好きだ。大好きな感情は、一度きりの感情は、何度だって味わっていたいものだ。
 誰かが私の書いた物語を読んで、その人自身の感情が湧き上がってきたならば、と、そのように想像することも幸せだ。私がやったことによって、今も誰かが喜んでいるかもしれない、と想像することは、それだけで幸せなことだ。だから私は、もっと美しい物語を書きたい。顔も名前も知らない、私の大好きな人たちが、私のことなんて忘れて、ただその人自身のために、私の文章を読んで、そこから何かを持って行ってくれるとしたら、そんな嬉しいことはない。
 だから私は、本当は、クソほどどうでもいい自己表現なんてやめて、ただただ美しいものだけを描いていたい。本当は、ずっとそうしたい。ずっとそうしていたい。

 でも私の物語は、私の意思で書いているものではないんだ。私の内側から、私の意思とは違う意志によって湧き上がってくるものだから、いつもそれを書けるわけではないし、かといって、私がただ意志を働かせず何もせずにしていたところで、それが必ずやってきてくれるわけでもない。
 私が体験したことや、私が必死になって書いたものが、時間をおいて、別の形になって、やってくるんだ。美しい形になって、私に書いてもらおうとする。私はただ、その瞬間のために色々なことをやっている、ような気がする。分からないけれど、でも、そうであったらいいなぁと思うのだ。

 私がこれまでやってきたことも、これからやっていくことも、全部私がこの先創り出していく美しい物語のために存在しているのだと思えば、私の苦しみも悲しみも、傲慢も怠惰も、後悔も愚かさも、全部意味のあるものだと思える。ひとつも欠けてはいけないものだったんだ、と思える。
 そうであってほしいのだ。私にはあまりにも、私の力では変えられない部分が多すぎる。助けてくれる人もいない。私の仕事は、誰かと一緒にやる仕事ではないのだ。そうでなくては、私の人生は無意味になってしまう。
 あぁ、私は誰かと一緒にいるのが好きだし、共同作業だって、同じペースで、互いのことを尊重し合いながらできるなら、楽しいことだと思う。やってみたいことだと思ってる。でも私にそんな機会は与えられたことがないし、自分からその機会を手に入れようとしてみたこともあるけれど、残ったのは敵意と孤独と苦しみだけだった。
 私のペースややり方は人のそれとは違うし、私は人に合わせられる人間ではなく、人に合わせてもらえるほど魅力のある人間でもなかった。我の強い人間でもなかった。私はただ、ひとりで泣きながら人の群れから離れて行くことしかできなかった。あぁ、その運命さえ肯定しなくてはならないのだから、私は私の力だけで何事かを成し遂げなくてはならないのだ。

 美しい物語を書きたい。でもきっとそれは、今年一年の目標にするには、あまりにも難しくて、考えられないことだ。

 去年の目標は、健康になることだった。実際私は、去年の今頃よりも、はるかに健康的になった。自分自身というものを、強く認められるようになった。
 自分の欠点や弱さ、醜さや愚かさを、自分自身に許せるようになった。今は、自分自身の将来の冷たさに直接触れ、受け入れることができるようになりつつある。私は自分の現状を、自分にとって都合のいいように捉えず、自分にとって都合の悪いようにも捉えず、ただひとつの状態として、見ることができるようになりつつある。
 あぁ、私の感情は、昔よりさらに鋭敏になっている。私の穏やかさは、かつてよりさらに穏やかになり、私の喜びは、かつてよりさらに無邪気になり、私の悲しみは、かつてよりさらに純粋で美しくなっている。私の憎しみだって、かつてよりさらに大きく、はっきりとした炎となって噴き上げている。
 憎しみを許すこと。それが一番難しくて、今の私にもまだできていないことだ。
 最近やっと、自分の中に憎しみというものがずっと眠っていたことを受け入れることができるようになった。怒ったり、苦しんだり、悩んだりしながらではなく、率直に、ただ在るものとして、自分の憎しみを眺めることができるようになった。

 一歩一歩、進んでいるという実感はある。とてもゆっくりで、昨日と今日と明日の間に大きな差は感じないけれど、でも一年前と比べると、確かに私は成長している。一年前の私が想像できなかった私になれている。
 一年前の私が、今私の書いた文章を読めば、きっと驚き、喜ぶことだろう。あぁ、その文章は、私が書きたくても書けなかった文章なのだ。
 今の私が書きたくても書けないものが、いつかきっと、完全な形で書けるようになる。それは確かに、具体的で、現実的な希望だ。
 その書いたものはきっと、多くの人が理解できるものではないことだろう。それでいいのだ。私の書こうとしているものはいつだって、誰もが理解できるほど簡単な事柄ではないのだ。
 私は他者からの評価や好意などは、必要としない。というかそういうものがあったって、私はそれをすぐに裏切ってしまうことだろう。私は誰かの期待や要求に応えることができるほど、優秀ではないし、素直な人間でもない。従順な人間でもないし、役に立つ人間でもない。
 私は、この社会にとって邪魔な人間であるし、それでいいのだと思っている。だって、私にとっても、この社会というやつは、邪魔な存在なのだ。私のことを意味もなく苦しめる癖に、少しの悪気もなく、私に返せもしない恩を押し付けてくる。
 あぁ、私はもうそのことは忘れることにした。社会や世の中のことを恨むくらいなら、社会や世の中のことなど忘れて生きていた方がマシだ。私は私の目標、私の愛するものに目を向けて、その中で生きるようにしよう。
 私は生まれつき独りよがりな人間であったし、独りよがりである限りにおいて、幸福であった。誰かと一緒にいようとすればするほど、誰かと幸せを分かち合おうとすればするほど、私の胃は吐き気でいっぱいになった。嫉妬への配慮とか、価値観の違いとか、思考の深さとか、常識がどうとか、マナーがどうとか、もう全部が全部、私を不幸にするものでしかなかった。

 私が寂しい人間であることは本当のことだ。でも、誰かと一緒にいたって、それでこの寂しさが癒えるわけではない。それどころか、誰かと寂しさを分かちあったなら、その寂しさはさらに大きくなるだけなのだ。幸せを分かち合ったなら、その幸せは大きくなるけれど、相手が幸せでないのならば、私の幸せは、ただ人を苦しめるだけなのだ。
 愛や幸せに相応しいのは、すでに愛や幸せで満たされている人間だけだし、誰かと一緒にいて寂しくない人間は、自分の中に寂しさがあることを許せない人間だけだ。
 私は寂しい人間であるし、この寂しさを自分の中から追い出すつもりはない。私は人間というものを愛しているから、愛するものが傍にいないということで、私は寂しさを感じる。他者を恋しく感じる。それでいいのだ。
 寂しさ、というものも、私にとって価値のある感情だ。必要な感情だ。なくしてはいけない感情だ。

 私はもっと深くなりたい。より少ない人にしか理解されない存在でありたい。もっと稀有で、奇妙な存在でありたい。

 人間は、自分を理解すればするほどに、他者からは理解されぬ存在となる。私は、もっと自分を知りたいのだ。もっと自分を愛したいのだ。

 もっと無垢な衝動が欲しい。もっと確かな理性が欲しい。もっと強くて不安定な感情が欲しい。

 私はもっと人間的でありたい。もっともっと、自分に生まれつき備わった人間としての機能全てを、より高度に仕上げてみたい。

 幸運なことに、私はまだ若い。驚くほどに若い。自分がこれまで歩いてきた道、超えてきた夜の長さに比べて、私の実際年齢は、不釣り合いなほどに、若い。
 もう何もかもを諦めたくなるほど疲れ果てることも多いのに、私のこの若い肉体は、すぐに疲労から立ち直ってしまう。すぐにまた、新しい朝の前で伸びをし始める!

 さぁ、今年も不愉快な人生が始まる! ならば、その不愉快を、せいいっぱい楽しんでみようじゃないか!

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