noteをやめたいと考えたすえに
最近、頻繁に「noteやめたいなぁ」と思ってた。
いちいち通知チェックする習慣も気持ち悪いし、考えごとしている最中に「この話記事に書けないかな」とかって判断し始めるのもめんどくさい。
正直、ものを考えることの邪魔になっているのを感じている。
自分の体に合っていないのだろう。
迷っている自分もいる。続けることは難しいことじゃない。やめることも難しいことじゃない。
結局自分がどうしたいかという問題なのは理解している。自分が何を求めているか、ということ。
私はそもそも、他人からの評価をあまり大きなものとして認識していない。評価が欲しいと思うこともあるし、反応が欲しいと思うこともある。でもそれは、SNSでなくても問題はないのだ。友達でもいいし、また別の何かや誰かでもいい。私は結構フットワークが軽いから、ネット以外の方法で人と繋がることもできる。
疲れているというのは事実だ。自分がどれだけ、世間や他の人と考え方や生き方がずれているのかということをいちいち自覚してしまうのも疲れるし、それについて何か考えるのも疲れる。
概念や理論について考える方が、自分の実生活について考えるよりも楽だ。自分の実際の行動や活動について深く悩んで、選択していくのは、どれだけやっても苦しい。息苦しくなるし、めんどくさいし、できればやりたくないことだ。
自分の考えたいことだけを考えることができたら、どれだけいいか。でもそれはそれで、きっと退屈になってしまう。
結局、SNSをやっていようがやっていまいが、私の生き方自体には大きな差はないと思う。
ただ体調が悪い原因を、noteに見つけようとしただけだと思う。あるいは、エネルギーが不足しているから、できるだけ考えることや行動することを減らすために、そういう方向に思考が引っ張られるのかもしれない。
結局のところ、自然に生活しているだけでいいのだと思う。書きたいと思った時に書けばいいし、投稿したいと思った時に投稿すればいい。なんか、気張って生きるのは調子いい時だけでいいや。私、私に厳しくしても、いい成果出せたことないから、これでいいんだ。
「学習性無気力」って言葉が浮かんじゃうな。まぁ確かに、私は生きてきて……必死の努力が実ったことは、あまりない。ただ当たり前のことを当たり前のようにやっているだけで褒められることが多くて、やっちゃいけないことをやって怒られることの方が多かった。
人の間違いを指摘することもそうだ。先生の間違いを指摘したせいで、なぜか関係のない別件の話で一時間とかずっと説教されたこともある。あんな経験をすれば、こんな風にもなるさ……
結局のところ、直接論を戦わせずとも、私自身が頭の中で考えた理屈や論理と矛盾するような話を、立場のある人が皆の前で自信満々説教し、ほとんどの人がそれに同意を与えた時点で、私の生き方や信念は否定されたも同然なのだ。
私は自分がどれだけ努力したところで、私のことを本来の意味で認めてくれる人が増えないことを、私は学習してしまったのだ。
理解してもらおうと努力することで得られるのは、誤解だけなのだ。それが過大評価であっても、過小評価であっても、いずれにしろ、誤解なのだ。私は、自分のことを別の類の人間として取り扱われることに我慢ならない。
私は私であって、他の人間ではないのだから。
私は例外的な人間なのだ。結局、どうしようもない孤独の中にいる。
私は私のことを普通の人間だと思っているけれど、いたって正常な人間だと思っているけれど、とても人間らしい人間だと思っているけれど! 私の目には、私と同じくらい正常な人間が見当たらない。私と同じくらい、人間らしくものを考え、人間らしく己と向き合い、人間らしく他者と向き合う人間を、私は見たことがない!
私はただ純粋に、この時代の人間に相応しい人間であろうとしていただけだったのかもしれない。
私はただ、この時代の人々が褒め称える「ものごとをよく考え、他人をよく気遣い、社交的で、寛容で、心優しい、人間らしい人間」になろうとしていただけなのかもしれない。
馬鹿みたいじゃないか。私は結局、社会不適合者の一類型に過ぎない。人と長時間関わることができず、単純作業をするとすぐに憔悴しきってしまう、役立たず。
間違った理屈に従って動くことができないので、上からの命令や定められた規則に従うこともできない。
私はいつもこう思ってる。
「私が狂ってるんじゃない。他の人間たちが皆少しずつ狂っているのだ」と。
もう疲れた。人生も、考えることも、書くことも。
私はまだ、自分の意志で生きることができているのだろうか……
自分の意思で生きるための条件は、自分の意志で死ぬことができることだ。自分の意志で死を選べる人間だけが、自分の意志で積極的に生を全うすることができる。
死を選ぶことのできないということは、すなわち「生きるしかないから生きている」ということなのだ。
そうではなく、死という選択肢を選べるからこそ、私たち人間は、「生きるということをわざわざ選ぶ」ということがができるのだ。
人間以外の動物が自殺をすることは、ほとんどないらしい。それはきっと、動物たちは人間ほど強い意思を持っていないからだ。
私たちには意志がある。他の生物全てに共通する本能に抗うことができるという明確な証拠、それが自殺だ。
これまでもっとも強かった本能より、さらに強い本能を己の内に宿すことができるという証明、それが自殺だ。
私は、死ぬことができる。私は、そうだ、私は、自分が死を望むなら、いつでも死ぬことができる。私は、まだ死を望んでいない。私は、はっきりと、生きることを望んでいる。それでいい。
情けない自分。どうしようもなく、恥ずかしい自分。それでも、生きる。もういいじゃないか! うんざりだ。形ばっかりの理屈は。
結局まだ死にたくないだけじゃないか、私も。
吐き気がする。自分が人間であるということに、吐き気がする。いっそ死んでしまった方が楽なのは、分かりきっている。でもまだ、生きることを選んでいる。わざわざ、それを選んでいる! 理由なんてなくて、ただそれを私の肉体が求めていて、私の精神は、その肉体に反抗するのをやめたに過ぎないのだ。
意思など何の意味があるだろう。
人間など何の意味があるだろう。
連中の言っていることに何の意味があるだろう。
全部全部、百年後には消えてなくなってるのに。千年後には? 一万年後には? 人類が、滅びた後には?
人類が滅びても、きっとまた別の生命が生き残る。それは人類にとって、最大かつ最高の希望だ。私は私が死んだ後に、私に触れることのできる存在がまだ生きているということに、深く感動する。
この世界でもっとも美しい神秘を感じる。
自分が死んでも、世界は残っていくという確固たる真理に、私は深い深い理性的な感動を抱く。それをこの手で実感できることが、どれだけ幸せなことか。
だからこそ、私はまだ死ねないのだ。私は今のところ無駄な存在で、何も背負っておらず、ここで死んだら何も残らない。私はまだ何も成し遂げていない。何ひとつ、意味のあることを成し遂げられていない。
私が今までやってきたことの全ては、全て消えて忘れ去られてしまうような、くだらないものだ。
私は、あがくしかないのだろう。きっと、自分ができる最大の努力を、ひとつの目的のために出しきらなくてはならないのだろう。
でも私には、その目的が分からないのだ。私には、私の進むべき道が見えないのだ。私は、どこまでも……暗く、誰もいない道をさまようばかり。どうせ全て消えてなくなってしまう。
私の幸せに何の価値があるだろう。それが永遠であっても、瞬間であっても、同じことだ。私は私の幸せに、絶対的な価値を置くことができない。私が幸せであることよりも、この世界が美しく存在している方がずっと重要なのだから。
私以外の存在が、私より豊かな存在が、この世界に存在しているということこそが、私が幸せであることよりもずっと重要なことなのだ!
あぁそうか! 私は存在を求めているのだ! 私には理解できないもの。私には汲み尽くせないもの。まだこの世界に存在していない、しかし、存在することのできる、美しきものが、この先新しく存在するようになることを、私は望んでいる! そうだ……生成こそが、希望なのだ。なかったものが、新しく生まれるということが、私たち人類の、喜びの根源なのだ。そうだ。誕生だ。進歩だ。創造だ。私は、私たちは、私たちの幸せなんかよりも、私たちが栄え、滅び、死に絶え、その先にまた新たな存在が存在することを望んでいるのだ……
誰が何と言おうとも! 私は確信している。そうだ。世界は、より美しく、より複雑になっていかなくてはならない。それが私の意志だ! それが私の、目指すべき地点だ。
より美しく、より複雑に。
私はそのために、何ができるだろうか。
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