道徳と品性は別の問題なのか

 私は道徳的なことを言わないようにしているけれど、品性についてはたびたび持ちだしている。

 ある時私の中の批判者がこう言った。
「お前は『道徳を説かないようにしよう』としているが、実はそうしたくてたまらない。だから『品性』を持ちだすことによって、道徳を道徳でないかのように語っているのだ」と。
 確かにその疑いはもっともだ。私はこれについて深堀りしようと思う。


 道徳とは何か。

 道徳と一口に言っても、色んな捉え方がある。ここでは、私が好ましいと思っているものと厭わしく思っているものをはっきり分けたいと思う。

〇私が嫌いな道徳
・人に説きつけ、無条件的に強制させる社会的なもの。『法律を破ってはならない。あなたが誰であっても』等。
・万人に当てはまるべき理想像。『すべての人間は平等であり、全ての他者を尊重しなくてはならない』等。
・『お前たちはこうでなくてはならない』『お前たちはこうあるべきだ』等、広い範囲に適応される、他者への強制。

〇私が許容している道徳
・自分にのみ当てはまる禁則事項。『私は○○してはならない。他の人のことは知らない』『私は○○しなくてはならない。他の人のことは知らない』等。
・他者への忠告としての道徳。『人を殺すと人から憎まれる。だから君は人を殺さない方がいい』等。
・相手の行動に対する自分自身の行動の宣言。『君が私を殴るというのならば、私も殴り返さぬわけにはいかない(君は私を殴ってはならない、を意味する)』
・ただ物事の道理を説いただけのもの。『相手が挨拶をしたのなら、あなたも挨拶を返しなさい。そうすれば相手はあなたを好意的に捉えてくれる』等。


 つまるところ私は、相手の道徳が自分に何かを押し付けようとしているのを敏感に感じ、それに反発するのだ。従うかどうかは、自分という個人で考えて選択したい。選択の余地を残さないような道徳は、それが個人的であれ社会的であれ、私の趣味に合わないのである。
 
 では品性というものを考えよう。品性とは、趣味であり、感覚である。必然性は全くないが、気まぐれというほどその時々で変わるものでもない。
 感じる品性は各個人で少しずつ違っているものだが、ある程度の共通認識はあると思っている。
 特に「品性のなさ(野蛮であるということ)」ということに関しては、ほぼ万人に共通した観念なのではないかと思う。
 列挙する。

〇品性がないということ(あるいは低いということ)
・相手の話を聞かないこと
・相手に自分がどう思われているか考慮したことがないということ(考慮したうえで無視したり、考慮しないと決めている人は除く)
・自分の世界だけで完結していること(周りのものや人を全て自分が利用するためのものとしてしか捉えないこと)
・品性というものについて意識したことがないこと(意識したうえで無視したり、考慮しないと決めている人は除く)

 これらのことは「極度に品性に低いこと」としていいと私は思っている。
 道徳と違うのは「こうであってはならない」ということではなく、その存在を許容したうえで、低く評価するということである。
 「あいつは悪だ。懲らしめなくては」が道徳だとすると、品性は「あいつは下品だ。関わらないようにしよう」であったり「あいつは下品だ。反面教師にして、自分に同じような下品さがないか省みてみよう」というようなものだ。

 私にとっての道徳は基本的に外に向かう働きで、品性は内に向かう働きである。
 道徳とは押し付けるものであり(同時に押し付けられるものでもある)、他者(あるいは己)を罰したり許したりするものである。選ぶことのできないものである。
 品性は押し付けるものではなく、自分で勝手に判断し、評価し、それに従って自分自身を動かすことである。つまり自分で選ぶものである。

 品性は矛盾してても構わない。ただ道徳の矛盾は、その道徳の存続にとって最も危険な問題となる。
 そして道徳は往々にして自己矛盾と自己欺瞞に苛まれる。
 知的誠実さの観点からも、私自身の趣味の観点からも、私は道徳を厭わしく思う。


 さて私の文章からは、どれくらい道徳の悪臭が残っているだろうか? 私自身ではよく分からない。
 しかし、私よりも強く道徳に縛られている人間にそれが分かることもないであろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?