井戸と心の比喩


 たまには比喩で語ろうかなぁと思ったので、おおかた伝わらないような表現をしてみまーす!

 人の心はよく深い井戸にたとえられる。石をちょっと強い言葉として投げ入れることを、人の心を試すことと捉える。

 その井戸が浅くて堅い乾いた井戸なら、すぐに石がカツンと音を立てるだろう。落ちても平気そうだと感じると思う。
 深くて堅い井戸でも、時間差で音が鳴る。でも反響音から、その井戸が深くて、掘り下げられたものだとはっきり分かる。深くて堅い井戸は、人から恐れられるよりも、尊敬されることが多い。音が綺麗だし、深さもはっきりしている。

 浅くて柔らかい井戸は、音が鳴らない。音が鳴らないから、もしかしたら途方もなく深いのではないかと疑われることも多い。でも実際にはただ泥が積もって落ちたときの衝撃を和らげただけなのかもしれない。
 心をさらに確かめてみると、これであることが非常に多く、失望することも多い。もっとたくさんの石、それも大きな石を投げ入れてみるとよくわかる。ぼちゅん、と汚い音が鳴る。これが浅くて柔らかい井戸の特徴。
 深くて柔らかい井戸。どんな大きな石を投げ入れても、何の音も鳴らない。でもこれは、実在することを確かめられないから、私には分からない。少なくとも私は自分の心を試すと、結構ちゃんと音が鳴るから、少なくともこれではない。

 心には水をためておける。水によって、音が鳴る場所を高くして、自分を浅くすることができる。深い人ほど、たくさんの水を貯めたがる。自分を恐ろしい存在だと思ってほしくないから、目で見てわかるくらい浅い場所で音を鳴らしたがる。でも浅すぎる井戸の水音は、響きがつまらない。
 でも普段自分を浅くしている人が、ちょっとだけ本音を漏らしたときは、普段聞こえないような深い音色で響くことがある。私はそれを聞くのが好きだ。


 私はこれまでずっと、自分の心が自分が思っているよりもずっと深いものだと思って取り扱ってみたが、実際に水も泥も抜いて乾かしてみて石を投げ入れたら、決して底なしではないことが分かった。それがどれくらい深いかは分からないけれど、自分より深い人間の音色も浅い人間の音色も知っているから、私には私の深さがあるのだということがはっきり分かった。

 帰ってくる音は、もはやその石の形や大きさと結びつけることができないくらい、変形して帰ってくる。それは確かに、深さの証なのだ。
 その音がちゃんと反響して美しく響くのは、その井戸が清潔である証なのだ。

 でも私、時々疑う。この音が、実は井戸の側面にぶつかった音なのであって、実は「底」などないのではないか、という疑い。曲がりくねった井戸なら、底に着く前に何度も音を立てるはずだから。

 実はすべての人間が、人間には理解できないほど深く純粋である可能性すら考えられる。実は人の心の井戸は胃のような形状をしていて、あくまで音が鳴るのは、一時的に水を貯めておくために容易された場所だけの話なのではないか? 

 比喩って面白いなぁ。でたらめだけど、案外外れていないような気もする。

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