時間を大切にすること

 忙しくしている人間とはあまり関わりたくない。彼らはいつも自分がいかに時間がないか主張してくるし、言葉も節約したがる。
 私が暇そうだと思ったら、すぐ利用しようとしてくる。自分がやりたくないことを、忙しいという理由ですぐ押し付けようとしてくる。しかも自分がやっていることを自覚していないし、その自覚できない理由を「忙しいから」で片づけてしまう。考えない理由も、やらない理由も、変わらない理由も、全部「忙しいから」。人に優しくなれない理由も、すぐに腹を立てて怒鳴る理由も、相手の話が理解できない理由も、全部全部それで片付ける。

 仕方ないのは分かる。でも忙しい生活を選んだのはその人自身なのだから、それによる不都合だってその人自身が背負うべきなのではないか?
 それを、暇の多い生活を選んだ人間ばかりに押し付けるのは、不当なのではないか? 暇だからといって、こちらの意見を無視して負担を押し付けてくるのは違うのではないか?

 私が忙しそうにしている人を手伝ったのは、たまにはそういうのも悪くないなって思ったからであって、ずっとそれを続けたくてそうしているわけではない。私は忙しいのが嫌いだし、忙しくて余裕のない人と関わるのも、基本は嫌いだ。こちらばかりが、彼の心情に配慮しなくてはいけなくなるからだ。

 忙しい人間は、基本的に他者の気持ちを想像する余裕なんてないし、そもそも、そういうことを日常的に行った上で忙しくしていると、そのうち壊れてしまうから……結局はどちらを選ぶか、なのだ。

 私は人と関わるのが好きだ。誰かのために何かをするのが好きだ。誰かを喜ばせるのが好きだ。
 だからこそ、喜ぶ余裕のない人も、自分のことしか考えられない人も、あまり好きじゃない。そういう人を喜ばせても、その喜びは一時的で、広がりを持たないから。

 人を忙しくさせようとする社会は嫌いだ。退屈過ぎて「時々は忙しくしたいな」と思えるくらいの生活を皆ができればいいのに、と私は思っている。

 せっかく遊びに誘って楽しもうとしているのに、それがいまいち楽しくなかったくらいで「時間の無駄だった」とかって思うような人は、二度と誘いたくなくなる。
 私はそんな風に考える人の時間を貴重だとは思えない。そもそも、時間を無駄にしないようにしようと思っている人間ほど、価値ある時間というものを知らないものなのだ。時間のほとんどは本質的に無駄であることを知らないから、一時的な快楽や単なる休息のことを「価値」だと思ってしまうのだ。時間や金などの道具のことを「価値」だと思ってしまうのだ。

 時々老後が待ち遠しくなる。年老いれば、時間というものが基本的に無駄であることを理解すると思う。老人が「時間を無駄にしたくない」と焦って生活をしている姿はあまりに滑稽だ。自分にこの先できることが少なく、自分が今までやってきたこともそれほど多くもなく、自分の人生がたくさんの無駄の積み重ねであると分かるなら、その無駄に対する愛着も湧くし、それでもいいのだと分かるはずだから。

 疲れている人と一緒にいると、こちらまで疲れる。ひとりきりになりたくなる。

 大人たちはとっとと老いてしまえ。私はずっと子供のままでいるから。

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