ためらうコメント

 いい記事を読むと、コメントを残したくなる。その人と仲良くなって、その内容についてちょっと言葉を交わしたい、と思うのだ。

 しかしいい記事というのは当然、発展性があって中身の濃い記事なので、それについてのコメントを残そうと思うと、どれだけ文章を削っても結構長くなってしまう。

 長文コメントは、基本的にあまり好まれないのだと知っている。アピールするつもりはなくても、アピールのように見えてしまう。そして文章は「どのように見えるか」ということが「どのような動機で書いたか」よりも重要なのだ。

 noteは個人的なコメント欄まで全ての人が見ることができるから、自分の記事を書くのと同じように他人の記事にコメントを残すのは、失礼なことだと思う。

 といっても「素晴らしい記事だったので、長いコメントを残したいのですが、よろしいでしょうか?」というような確認をとるわけにもいかない。というかそのような確認は、無意味だ。
 ほとんどの人は、丁寧にそのようなお願いをされたら断れないし、そもそも重要なのは、そのコメントがどのような内容であるか、ということだからだ。
 後から出されたコメントを不快に感じたとき「でも、いいって言っちゃったからな」と、バツの悪い思いにさせかねない。

 私は八方美人でありたいとは思わないが、上品な人間ではありたい。意味もなく人を不快にさせることのない人間でありたい。それは「そうでなくてはならない」ということではなく「そうしたほうが綺麗だから」というだけの理由だ。
 私の美意識の問題だ。だからこそ、ためらう。

 私の文章は、人をぎょっとさせることが多いから、慎重にならざるを得ない。意見を言いたいと思っても、黙っていることの方が多い。

 コメントを残したいなと思った時、先に文章を作って、推敲して、でも結局やめてしまうことばかりだ。あとで意見が変わることもあるし、悔やむこともある。

 失礼に聞こえかねない個所が残っていたり、そもそも文章自体、削りすぎて難解、不親切になっていることにも気づいたりして。

 声と態度で示す、面と向かってのコミュニケーションは楽だ。間違ったことを言ってもお互い忘れてしまうし、話題が同じところでずっと止まることもないから。たとえ意見の対立があっても、話題を変えてしまえばその重要性も下がってくれる。

 でも文章はそうじゃない。残って、そのやり取りは、見返すたびに二人の間で繰り返されるから、丁寧にしないといけない。
 たとえ間違ったことを言ってしまうにしても、よく考えたうえでの間違いなら、問題はない。でも大した考えもなくただ適当に言った言葉が、自分の言葉としてずっと取り扱われ続けるのは、恐ろしい。

「誰もそんな丁寧にあなたの文章を読んでない」
 と人は言うかもしれない。でも、私は丁寧に読まれることを望んでいるのだ。
 丁寧に読まれることを望んでいるのに、丁寧に読まれたらまずいような文章を書くのは、矛盾しているじゃないか。

 私には私の美意識がある。でも色んな人ともっと関わりたい。
 私はそのはざまで揺れている。
 そのせいで、私の記事にコメントを付けてくれた何人かの人に、理不尽なことをしてしまったとも思ってる。

 悪いとは思ってない。それは仕方がないことだから。

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