ふつう【青春もの】

「なぁお前も告れよ」
 高校一年の秋。クラスメイトの佐々木亜紀は俺以外の男子生徒十七名(不登校のやつがひとりいて、そいつを除く)にすでに告白されていた。それは「モテている」というより馬鹿な男子高校生の「告白ブーム」のせいだった。なんでも「高校生の間に一度も誰かに告白しないなんて、もったいない」とのことだった。どうせ断られるのも明確で、そういう練習、経験をしておいて損はない、というのが彼らの理屈だった。それに佐々木亜紀は今誰も好きな人がいないというし、もしかしたらチャンスがあるんじゃないかという意味のわからない希望的推論も彼らを後押ししたようだ。
「なぁ露木。まだ告白したことない男、このクラスでお前だけだぜ?」
「なんで好きでも付き合いたいわけでもない女に告白しなきゃいけないんだ。何を告白するっていうんだよ」
「はいはいでたでた。そうやって真面目ぶって正論言うんだお前。だからモテないんだぞ」
「余計なお世話」
 本当に余計なお世話だ。そもそもモテてどうするんだ? 興味のない女から好かれたって、困るだけだろう。いや……こいつらなら「とりあえずキープ」とか言い始めるのかもしれない。不誠実極まりない、クズみたいな連中だ。
「なぁ、露木みたいな奴ってどう思う? 愛想悪くて、人を見下してて、正論で人をねじ伏せるのが趣味、みたいなやつ」
 真鍋は近くにいた女子のグループに大声でそう尋ねた。女子のグループは馬鹿にしたようにクスクスと笑った後「少なくとも真鍋君よりは素敵かな」「まぁ、将来高収入になりそうだし有望株なんじゃない?」「浮気はしなさそう」等と、真鍋が欲しがっていない微妙な意見を口にした。真鍋は残念そうに「あーあ。そんなこと言うからこいつはまた付け上がって、余計うざくなるんだぜ。くっだらないプライドばっか育ってさぁ」
「露木君、真鍋君の言うことはほっといていいよ。うちら露木君の仲間だから」
 そんな簡単に「仲間」だなんて言わないでほしかったが、仕方なく愛想笑いをして「どうも」と呟いた。
「へらへらしくさってよぉ。童貞のくせに」
「真鍋君も童貞じゃん」
「俺は童貞じゃねぇし。中学の時の彼女で捨てたし」
 誇らしげに真鍋はそう言い放つ。女子たちはもうクスクス笑うことも辞めて、不愉快そうに顔をしかめていた。
 俺もうんざりして、明日の授業の予習に取り掛かることにした。

 元々病弱なたちで、中学の頃は一年間に三十日以上欠席していた。だから学校の先生と相談して、近場の私立高校に推薦で入ることにした。その結果、ほとんど平均的な人間ばかりが集まるこの馬鹿げた高校に通うことになってしまったわけだ。高校に入ってから部活を始めたかったけれど、うまくタイミングを掴めずに帰宅部のまま。クラスで浮いているわけではないが、かといって特別仲のいい友達がいるわけでもない。何度か遊びに誘われたし、家に友達を呼んだこともある。別にぼっちというわけではないが……でも彼らは俺がいなくたって困らないし、俺も彼らがいなくても困らない。
 何か嫌なことがあるわけでもないし、現状に不満もない。成績はよいし、体も今までの人生で一番健康的だ。
 でも、どこか物足りなさを感じる。ただただ時間を浪費しているような感じがする。
 それは他の連中も同じみたいで、だから何か非日常的なものを探し、場合によっては自らそれを作りだす。たとえば、恋愛。好きでもない容姿の整ったクラスメイトへの告白。

 俺はなまじ彼らの気持ちが理解できる分、余計不愉快だった。あの醜い連中と自分との間にほとんど差がないことが、いやだった。だから高校を通う間は、誰とも付き合わないようにしよう、と誰にも言いはしなかったが、そう決めていた。
 「くだらないプライド」と言われれば、確かにその通りだ。でも俺にはそれくらいしかないのだから、それを守ったっていいと思う。それすらないのは、あまりに惨めだ。


 放課後、雨が降っていた。外を見ると隣町の方は晴れている様子だった。少し待ったら雨がやみそうだったから、勉強をして待つことにした。
「露木君、傘忘れたの?」
 休み時間に真鍋に絡まれていた女子グループのうちのひとり、須田優佳が、そう尋ねてきた。
「いや、持ってるけど。やっぱ傘さしても濡れるのは濡れるし、晴れそうだから待ってるだけ」
「あ、そうなんだ。うち折り畳み傘持ってきてるから、貸してあげようと思ったんだけど、それじゃいらないね?」
「うん。気持ちだけ受け取っておくよ。ありがとう」
 実際、心遣いがありがたかった。日常生活でいい感情を抱くことが少ない分、そういうときには素直に言葉にしたい。そうできている。
 そういう事実を考えると、もし誰かを好きになったとしたら、俺は迷いなくそれを告げられるのかもしれない。
「露木君、さようなら。また明日」
「また明日、須田さん」
 女子の笑顔は、素直に可愛らしいと思う。少しだけ心が温かくなって、勉強に集中できるような予感があった。雲の動きは思ったよりも遅くて、まだ雨はやんでなかった。
 ひとり、またひとりと教室からいなくなって、自分だけになった。雨はまだやまない。外はほとんど暗くなってしまっていて、雲の様子はもうよく見えなかった。雨の音から、少しだけ弱くなっているようだった。もう少しだけ待とうと思った。
「あ、露木君まだいたんだ」
 教室に、少し元気がなさそうな例の女子、佐々木亜紀がやってきた。
「ん。雨が中々やまなくて」
「あー……そうだよねぇ。やみそうでやまないよね」
 教室に気まずい沈黙が降りた。佐々木は何かを言おうとしていたようだが、結局何も言わなかった。俺は仕方なく「何しに来たの?」と尋ねた。
「えっと、私書道部で、部室が三階なんだよね。だから、帰り道この教室の前を通るんだけど、珍しく人がいるなぁと思って覗いたら、露木君がいたから」
「なるほど」
「まだ雨やまない?」
「やまない」
「そっかぁ。私、傘忘れちゃったんだよね」
「折り畳み傘、貸そうか?」
 実のところ、俺も須田さんと同じように折り畳み傘を教室に常備している人間だった。人に親切にするのは楽しいし、今までで何度か傘を忘れた友人に貸してやったこともある。
「いいの?」
「いいよ」
「ありがとう」
 その感謝の言葉は、どこかよそよそしい感じがして、本当は別の言葉が言いたい様子だった。俺は何か不穏なものを感じ取った。
「実はさ、佐々木さん傘忘れてないんじゃないの?」
「え」
 その面くらった様子から、勘が外れたことを悟った。
「いや、ごめん。忘れて」
「えー……」
「まぁ、傘明日ちゃんと返してね。前に別の人に貸したとき、一か月くらい帰ってこなくて困ったことあるから」
「大丈夫。ちゃんと明日返すよ。本当にありがとね」
「どういたしまして」
 佐々木亜紀は、素直にまっすぐ歩いて帰っていった。雨の音はほとんど聞こえなくなっていた。「雨はまだやんでない」と言ったことが嘘になってしまったようで、少し後ろめたい気持ちになった。俺も帰ることにした。

 まだ小雨がぽつぽつと降っていて、少し安心した。傘をちゃんとさせば全く濡れないくらいの天気。待ったことが全くの無駄にならなかったので、悪くない気分だった。


「おはよう、露木君」
 朝一番、佐々木亜紀は俺に挨拶をした。クラスの皆は、男子の中で彼女に告白していないのが俺だけだったことを知っていたから、一瞬だけ空気が静まった。
「傘、ありがとう。助かったよ」
 差し出された折り畳み傘を受け取ると、留め具のところに小さな紙がついていることに気づいた。俺がそれを手に取ると、佐々木亜紀は唇に人差し指を当てて少しお茶目な仕草をした。こういうところが男子からモテる所以なんだろうかと俺は眠い頭でぼんやりと思いながら「うん」と小さく頷いた。
 紙を広げて何が書いてあるか確認するのはなんだかめんどくさかったが、せっかく受け取ったものをそのまま捨ててしまうのも不誠実な感じがした。仕方なく、変にもっておくのもおかしいから、その場でさっさと広げてしまうことにした。
「おーい。つ、ゆ、き」
 真鍋の奴がいきなり後ろから肩を叩いてきて、俺は驚いて体ごとびくっと震えてしまう。紙をどうしようか迷ったけれど、めんどくさくてそのまま広げてしまった。
「お前、何ちゃっかり佐々木さんと仲良くなってんだよ。告白はしないくせによお」
「別に仲良くなったわけじゃない。傘を忘れて困ってるようだったから、貸しただけ」
「お前、ぶっちゃけ佐々木さんだったから親切にしたんだろ?」
「別に誰にだって同じことをしたさ」
 真鍋は急に顔を近づけてくる。
「じゃあ、村井のやつにでも、同じようにしたか?」
 耳元で響くだみ声に、俺はぞっとした。反射的に村井の方を見てしまったが、慌ててすぐ目を逸らした。
 村井はいつもクラスの隅にいて、髪が長くてフケだらけで声がガサガサしている陰気な女子生徒だ。クラスの友人たちは、皆陰で村井を馬鹿にして、笑っている。下品だと思うが、かといって俺も村井と関わりたいとは思わない。
「彼女が佐々木さんと同じように『傘を忘れて困ってる』と言ってきたら、貸すよ」
 それは皮肉交じりだった。村井は本当に誰とも話そうとしないし、おそらく雨が降っていて傘を忘れても、誰にも頼らず雨に濡れて帰るはずだ。
「はー。いい男ぶりやがって」
 真鍋はつまらなそうに離れていった。
 すでに広げてあった紙には「昨日は本当に助かりました。もしよければ今度の日曜に、お礼をさせてもらえませんか?」と綺麗な小さい字で書いてあった。佐々木亜紀の方を見ると、彼女は微笑んで手を振っていた。俺は眉間にしわを寄せて、どうしようか悩んだ。何か嫌な予感がしたのだ。しかし人の好意を無下にするのも、申し訳ない。
 返事を書かなきゃいけないのか、と思うとめんどくさかった。しかしよくよく考えてみれば、彼女は書道部で、必ず帰る前にこの教室に誰かいないか確認するわけだ。ならば、教室に残っていればいい。通りがかったら、話しかけてくるはずだろう。

「ほんとにいてくれた」
 午後六時ちょうど。自習は三十分ほど前に飽きて、読書をしていたところだった。
「どういう意味?」
「いや、だって……言わなくてもわからない?」
 つまり、彼女ははじめからあの紙の内容の返事を、今この時に聞くつもりだったということだろう。
「でも、もし俺がここに来なかったらどうしてたの?」
「がっかりしてたかなぁ……でも、来てないんだろうなって思って覗いたから、今すごく嬉しい」
「それはよかった」
「それで、日曜日……お礼っていうか、なんというか。せっかくだしというか」
 二人きりで出かけること自体は別に嫌でもないし、相手が女子だからといって何か緊張するようなこともない。小、中のときから女子の友達はいたし、何度か彼氏へのプレゼント選び等に付き合って二人で出かけるようなこともあって、多少慣れている。しかし、俺は迷っていた。相手がこの佐々木亜紀だと少々話は変わってきてしまうからだ。万一何かあれば……面倒だ。そう。めんどくさいのだ。他の男子たちの目も嫌だし、女子たちだって何を噂するかわからない。
「ねぇ、嫌なの?」
 俺が黙って考えてると、まるで漫画か何かみたいに近づいてきて、こちらの目をのぞき込んできた。俺は思わず身を引いてしまう。
「嫌ではないけど」
 煮え切らない態度がよくないのはわかってる。でもすぐに決めることも難しい。俺がため息をつくと、同じように佐々木もため息をついた。それで佐々木はほんの少し体を引いて距離をとった。それでもまだ近い。
「私ね。実は結構性格悪いの」
 いやな予感がした。何か弱みでも握られている? いやしかし別に後ろめたいことなど……
「なんていえばいいんだろうね。私、高校入ってから『誰よりもモテてやろう』って思ってたの。それで……色々と都合のいいことが重なって、こんな風になっちゃった。私、こういうのを望んでいたはずなんだけど、全然楽しくない。なんだか、男がみんな馬鹿で、私のことなんて何ひとつ見てくれてなくて、ただそれっぽい恋愛をしてみたいだけみたいな……ごめん。なんか自分でも何言ってるのかわかんない」
「そう……」
「引いてる?」
「いや、別に。そんなもんなんじゃないかなぁって」
「引いてるじゃん」
 俺は苦しそうに微笑む佐々木亜紀の目を見て、笑ってしまった。
「近いからだよ、距離が。これも狙ってやってるの?」
 佐々木亜紀は不意打ちを食らったみたいにのけぞった。そのあと照れて顔を赤くして、首を振った。
「いや、その、ごめん。うちの家族、みんな距離近いから……友達にもよく言われるんだ。亜紀は色々近いって」
「そっか」
「それでその、日曜日、二人で遊びに行きたいんだけど。その、私の気持ちはわかってくれてるでしょ? 好きとかそういうのじゃなくて……ただ、変な言い方だけど、露木君に興味がある」
 俺は別に、佐々木に興味などなかった。慈善の精神で彼女の要望に応えてもいいけれど、そんな態度で本当にいいのだろうか? そもそもこれは一体何なのだろう? もう正直に、問うてしまった方がいい気がした。
「そうだね……その、問い詰めるみたいで悪いけど、どうして……いや、そうだね。わかってはいるんだ。ただこの日常に退屈していて、何か変化が欲しいだけ。佐々木さんだって、そうなんでしょ。馬鹿みたいな告白をする彼らと同じ、だ」
 佐々木亜紀は少し驚いたような表情をしたのち、また笑った。照れくさそうに、嬉しそうに。
「露木君は、人の気持ちが分かる人なんだね」
「別に。ただ思ったことを言ってるだけだよ」
「私、露木君と話すのが楽しい。ね、遊びに行こうよ。二人で。ね、どこに行く?」
「強引だね?」
「押せば行けるかなと思って」
「もういいよ。わかった。じゃあどこに行く? どこが好き?」
「え、えーっとねぇ。私……私何が好きなんだろう?」
 恥ずかしそうに佐々木亜紀は俯いた。外はもう暗かった。教室の蛍光灯の色が普段よりも強く感じられて、非現実的な空気を醸していた。
「それじゃあ、こっちで適当に決めとくけど、それでいい?」
 俺はもうめんどくさくなって、そう告げた。
「うん。いいよ。期待してる。あ、そうだ。連絡先交換しないと。ラインと、電話番号。実はさ、あの紙に連絡先とか書いておこうかなって少し迷ったんだよね。みんながいるところじゃ絶対返事なんてできないし、放課後に残ってくれるっていう保証もなかったし。でも露木君、そういうの好きそうじゃなかったから」
「それで、何も書かずにギャンブルした、と」
「あはは。ほんとにギャンブル……放課後に残って返事をくださいって書こうかなと思ったけど、それもなんか違う気がしたんだ」
「それじゃ告白みたいだ」
「確かに! 私そういう感じで何回か呼び出されたよ?」
「そうだろうね」
 会話が途切れると、何か聞いてほしそうにこちらをちらちらと覗いてくる。しかも少しずつ物理的な距離を近づけてくる。本当に、近い距離で話すことが習慣なのだろう。
「佐々木さんは、中学の時もモテたの?」
「少し? 今ほどじゃないけど、まぁ人並みには。彼氏ができたこともあるし。でもなんだかな。中学生の恋愛ってなんか、遊びっぽい感じがしてたし、漫画みたいな恋愛とかって、やっぱ高校になってからなのかなぁって思ってた。でも高校に入ってみて、なんだろう、全部遊びみたいに見えてる。高校卒業して大学生になっても、社会人になっても、結婚しても、子供産んでも、全部退屈しのぎの悪ふざけみたいに見えちゃって……」
「実際、ほとんどの人はそういう感覚なんだろうね」
「露木君は、恋愛経験どれくらいあるの?」
「全くないよ」
「えっ。その割に全然緊張してないけど?」
「恋愛経験のない人間がみんな女に飢えてるわけじゃないんだ」
「いや、それでも女の子と話すのに……露木君、こなれてる感じがするから、中学の時はさぞモテてたんだろうなぁみたいな」
「そういう気持ちの悪い先入見は勘弁してほしい」
 冗談交じりに悪態をついた。もちろん佐々木さんはそれが本気で怒っているわけじゃない事を察している。
「ごめんごめん。でも……告白されたこととかはあるんじゃないの?」
「ないよ。好かれているかもなって思ったことはあるけど、面と向かって言われたことはない」
「誰かを好きになったことも?」
「ない。逆に、佐々木さんはあるの?」
「まぁ、私もないけど……この人いいなぁって思ったりとか、好きってことにしておこうかなぁみたいなのはある。というか、中学の時付き合ってた人には私から告白したわけだし」
 疲れてきて、自然とあくびをしてしまった。一瞬しまったと思ったけれど、まぁ別にいいかと思った。別にそこまで相手を気遣う必要はない。佐々木さんも、ほとんど本音で話しているわけだし。
「正直、恋愛に興味がないわけではないんだけど、別にそこまで強い欲求もない。俺は元々病弱だし、親からも放任気味に育てられたから、独りきりには慣れてる。女からしても、自分に夢中になってくれない男は魅力的じゃないだろう?」
「そうかなぁ……自立してる人って素敵だと思うけど」
「でも女性は、放置されるのが嫌いでしょ。寂しいのは嫌なんでしょ」
「まぁ、そうかもね」
「俺はめんどくさいんだよ、そういうのが」
 少し本音を漏らしすぎたような気がした。佐々木さんはいつの間にか俺から距離をとっていた。この人はもしかしたら、心の距離と体の距離を自然と同じくしてしまうのかもしれない。
「でも、わかるよ。そういう気持ちも」
 その声に嘘の匂いはしなかった。つまり、理解はできるし共感もできる。でも、納得はできない、ということなのだろう。人間の不条理。自分は人をめんどくさいと思ってしまうけれど、人には自分のことをめんどくさいと思っていてほしくないという、そういう気持ち。
 今日はもうこれ以上近づくのはやめるべきだと思った。互いにとって何の得もない。
「そろそろ完全下校時間だね。帰ろう。送っていった方がいい?」
「いや、大丈夫。外暗いけど、この時間に帰ることも結構あるし。それに露木君、家逆方向じゃん」
「そうなの?」
「ほんとに、私に興味なかったんだね」
 すごく寂しそうに、悲しそうにそう呟いた。今日一番の本音だと思った。
「さようなら、佐々木さん。また明日」
「うん。また明日、露木くん」

 ひとりきりで歩く秋の夜。手をつないで歩く他校生がいて、それが青春なのだろうかと考えてみた。恋愛……好きな人ができて、相手にも好きになってもらって、それで手を繋いで、一緒に遊びに行って、仲を深めて、エロいことして、互いに飽きたら別れる。それが青春なのだろうか? それが人生においてもっとも鮮やかな瞬間なのだろうか? もしそうだとしたら、人生とは味気ないにもほどがあるんじゃないか? 原因不明の病気で入院して、いつの間にかよくなっていたという俺の経験の方が、ずっと起伏があるといえるんじゃないか? その途中で仲良くなった朝霧さんというおじいさんが亡くなったのだって、恋愛なんかよりずっと重く俺の胸に響いたような気がした。
 人を好きになるということは、知り合いが死んでしまうということよりも大きなことなのだろうか? どうせその人のことなんて時間が経てばどうでもよくなるのに。死んでしまった人のことは、胸に突き刺さって消え去ることはないのに。

 月が出ていた。俺みたいにある意味当たり前のことを考えている人間は、無数にいると思う。星の数ほどいる。でも今、星は街の灯のせいで全然見えなくなってしまっている。恋愛は人工的な光。思索とか詩とか、そんなものを全部消し去って、なかったことにしてしまう。悩み多き多感な思春期。言ってしまえばそれだけなのに、それがとても大切なことであるかのように思えるのだ。だからこそ、恋愛という頭を空っぽにして何かに夢中になるようなことが、どこか不愉快なのだ。俺はただ、考えていたい。そのために恋愛を拒絶する。
 それも後付けの理屈なのだろうか? ただ自分がそのような恋愛をしてこなかったことへの、自己正当化なのだろうか? そうかもしれない。分からない。いずれにしろ佐々木さんの一件は面倒だ。日曜日、どこに行くのか考えないといけない。せっかく行くのだし、互いに楽しくなれるような場所を考えないと。

 真っ先に思い浮かぶのは水族館。次に動物園。映画を見に行ってもいいけれど、自分の好きなジャンルのものを見れば必ずといってもいいほど泣いてしまうたちだから、あまり人と見に行きたくない。カラオケは……さすがに二人きりとなると気まずいな。神社巡りとかはしてみたいけれど、一日中佐々木さんとおしゃべりするのはしんどい。できれば喋らないで済む時間が欲しい。同じ理由で、ショッピングやカフェ巡り等も却下。アミューズメント系は人が多すぎるからもともとあまり好きじゃない。特に日曜日は厳しい。水族館や動物園も、厳しいかもしれない。すいているところは……個人的には多少設備が微妙で元気がない感じがしてても構わないけれど、いわゆる『普通の人』はそういうのに不安を感じるのだろう。人気がある場所にしか行かない『普通の人』。佐々木さんもそういうタイプだろうか? もしそうなら……杞憂だろう。本当に杞憂だろうか? 
「露木君は中学の時はさぞモテてたんだろうなぁ」
 こういう時に限って、思い当たる言葉が頭に浮かんでくる。人が肯定しそうなものを、自分も肯定するというあの癖。悪癖だと個人的には思っている。自分だけの目でものを見たことのない悲しい人間。
 もしそうだとしたら? いや、もしそうじゃなかったら? と考えたほうがいい。あの言葉はただ佐々木さんが思ったことをそのまま言っただけで、実際のところ別に他人が対象をどう評価しているか気にしないタイプの人かもしれない。
 はぁ。疲れる。どうしてここまでしてひとりの人間に固執しなくてはならないのか。ひとりの人間の心を分析しなくちゃいけないのか。
 やっかいな性分だ。そこまで真面目に考える必要なんてないのに。


 土曜日は憂鬱だった。天気は悪かったし、何の予定もなかった。ただ家でじっとしているのが嫌で、傘をさして外に出てみたけれど、雨に濡れてすぐに寒くなって、くしゃみをしながら何もせず家に帰った。
 ただそのあとに入った暖かい湯舟が気持ちよくて、まぁこういう休日も悪くないか、と思った。
 SNSはしないし、テレビもあまり見ない。読書は気が向いたときだけで、暇になったら漫画を読んだり、借りてきた映画を見たりする。我ながら無趣味だと思う。でも決して何も好きじゃないわけではなくて、むしろ興味が幅広いせいで何かひとつに熱中できていないというのが正しい。本も好きだし、漫画も好きだし、映画も好きだ。絵を描くのも、あまりうまくはないけど好きだし、ペン字の練習もたまにやる。勉強も嫌いじゃなくて、結局のところ家でひとりきりで過ごすことが多かったせいで、そういった時間のかかる暇つぶしばかり上手になったわけだ。

 日曜は晴れる予定だった。どこに行こうかまだ悩んでいた。もういっそのことその辺の公園でバトミントンでもして帰ってきたらどうか、と思った。しかしさすがにそんな適当じゃ相手に悪いと思うし、俺自身のプライドの問題もある。人を失望させるのは、不快だ。佐々木亜紀は厄介なことに、俺に何かを期待している。全部応えてやるつもりはないけれど、ある程度のラインは守ってやりたい。
 あぁ面倒だ。面倒だけれど、そのめんどくさいことを考えているときは少し楽しい。そういう性分なのだ。
 面倒ごとは嫌いだけど、楽しい。来てほしくないけれど、来たら来たで悪くはない。そんな風だから、次から次へと面倒ごとがやってくるのだ。

 夕方になって、ラインが来た。「どこに行くか決まった?」と佐々木亜紀から。「いや」とだけ返信。
「私行きたいところあるんだけど、いいかな?」
「いいよ」
「まだ言わなくてもいい? びっくりさせたいんだけど」
 どういうつもりかわからなかった。びっくりするような場所に思い当たることはなかった。見当もつかなかった。
「いいよ。待ち合わせ場所と時間はどうしよう」
「お昼ご飯食べた後、1時がいいかな。場所は、○○駅のホームで。あと、動きやすい服装でね。靴も」
 その駅は俺の家の最寄り駅だった。なぜ知っているのか不思議に思ったが、考えてみればクラスの誰かから聞いたのだろう。でもその「聞いた」という行為自体が何か意味を持って噂にならないか心配だった。
 しかも噂になれば、それは根も葉もない嘘っぱちというわけではなく、むしろ……ほとんど真実に近いような内容になる。佐々木亜紀は、はっきりと俺に興味があると言った。それだけでもう……他の男たちの嫉妬や劣等感は大変なことになる。
 めんどくさい! 心の底からめんどくさい! そっとしておいてくれればいいのに。
「わかった」
 携帯の電源を切った。もう何も見たくなかった。

 朝起きて、携帯電話の電源を付けた。佐々木さんからのメッセージがいくつか来ていた。
「繰り返しになるけど、運動しやすい服装で来てね。あと、晩御飯一緒に食べてから帰る予定だけど、それでもいい?」と。
 すぐに「わかった」とだけ返信した。すぐに既読がついて「それじゃ、○○駅のホーム、一時に会おうね」と返ってきた。佐々木さんは家でもスマホをあまり手放さないのかもしれないと思った。そして、そう思ったこと自体が不愉快だった。知りたくもないことを知ってしまったような気がしたからだ。
 外出の約束をしたときから続くぼんやりとした憂鬱感は晴れていなかった。容姿のいい同級生と二人きりで出かける、と事実だけを頭の中で並べてみても、すぐに反対の意見が上がってくる。「俺はそんな単純な人間じゃない」
「佐々木さんと付き合うのなんて絶対にごめんだ」
「この外出に、何のメリットがあるだろう?」
 だから、考えない方がいい。わかってる。何が起こるかはわからないし、自分自身にいい学びや影響があるかもしれない。変に嫌な事ばかり想像しても仕方ない。わかってるさ。


「おはよう」
 改札の傍にはすでに佐々木さんが立っていた。細身の黒いズボンと紺色のパーカーは体によく馴染んでいて、好意的な印象だった。
「あ、おはよう。時間ちょうどだ。すごい」
「そう?」
「うん。あと、意外と……って言ったら失礼かもしれないけど、露木君って結構オシャレさんなんだね。なんか、お母さんとかに買ってもらったやつ着てるイメージだったから」
「本当に失礼だね」
 俺は少しだけ愉快な気持ちになった。天気のいい朝方というのもあったし、何より佐々木さんの方にあまり緊張がなくて、今日は本音で話そうという気持ちで臨んでいることが分かったからだ。案外悪くない一日になりそうだと思った。
「ファッション雑誌とか買ってるの?」
「買ってない。最低限ネットで調べて、あとは店で選ぶだけ。中学生の時は雑誌も何冊かチェックしてたけど、流行とかは一切知らないし、興味もない。自分が好きなの買って、好きなの着るだけ」
 電車の中だと、距離が近いのも気にならない。そうしないと声が聞こえないということで、納得できるからだろうか。
「価値観がしっかりしてるんだね」
 ふっと自然に息が漏れるのが分かった。機嫌がよかったから、この際言ってしまおうと思った。
「価値観、なんて言葉で言ってほしくはないね。ただ、自分の感性でものを見れない奴がおかしいだけなんだから」
 あざ笑うようにそう言った。佐々木さんがどんな反応をしようがどうでもいいという気持ちで言ったけれど、それでも正直少し不安だった。佐々木さんは、俺と同じようにふっと息を漏らした。
「自分の感性でものを見るって、そんな簡単なことじゃないと思うよ」
 佐々木さんは毅然とした表情でそう言ったが、じっと見つめていると、そこからは不安の感情が少しだけ混ざっているような気がした。
「そうかもしれない」
 今日は本当に楽しい一日になりそうだと思った。佐々木さんは、どういう気持ちで俺との一日に臨んだのかはわからないけれど、今のところとてもうまくやっている。
 欺瞞の匂いがしなくて、呼吸が楽だった。

「次の駅で降りるよ」
 そこは田舎の駅だった。田舎とは言っても田んぼが広がっているとかそういうわけではなくて、一般的な住宅の他に小型の商業施設が二つ三つくらいあるだけの、平凡な地域だった。何か特別な気配もなく、有名な場所でもなかった。
「あのね、実は行きたい場所があるんじゃなくて、したいことがあるだけなんだ」
 電車から降りると、佐々木さんは前を向いたままはっきりとそう告げた。横顔は自信ありげで、俺は不安にならなかった。
 連れていかれたのは、『サイクリング用自転車貸し出し中』という看板がしっかりと立っている木製の小屋風の建物だった。駐車場は広く、中も入ってみると意外と広くて華やかだった。
「私、誰にも言ってなかったんだけど、サイクリングが趣味なんだ。やっぱり、露木君のことを知ろうと思ったら、その分だけ私のことも知ってもらわなきゃいけないと思って」
「それは、いい考えだと思う」
「でも、露木君ってあんまり運動得意じゃないみたいだから、大丈夫かなって」
「平気。しんどかったらちゃんと言うよ」
「うん」
 女性の店員さんは、佐々木さんと顔見知りのようで、親し気にいくつか言葉を交わしたのち、ヘルメット、サングラス、グローブと一台の自転車を用意してくれた。全体的にほっそりしていて、ハンドルの形も慣れ親しんだものではなかった。荷物を預かってもらって、自転車を押して外に出た。
 佐々木さんは自前の装備品をカバンから取り出していた。自転車の方も、おそらく自分のものを預かってもらっている形式なのだろう。明らかに、使い慣れた感じだった。
「最初は違和感あるかもだけど、すぐに慣れるからね」
 佐々木さんはそう言ってほとんど説明しないうちに自転車にまたがった。俺もそれに倣った。
「普段はどれくらい漕ぐの?」
「日によるけど……今日みたいな日だと暗くなるまでずっと漕いでるかな。休憩しながら」
「すごいね」
 素直に、そう思った。とても意外だった。でも『意外って言ったら失礼かもしれないけど』という服装についての佐々木さんの言葉を思い出して、お互い様だと思った。
 そうだった。俺は確かに、佐々木さんに対して失礼な認識をしていたのだ。勝手に、誰かと一緒にいないと不安になってしまうとか、特にこれといった趣味はないとか、そういう決めつけをしてしまっていたわけだ。
 実際は、休日に独りきりで半日ずっと自転車を漕ぐことを愉しんでいる佐々木さん。頭の中でそう繰り返すと、楽しい気持ちになった。
 誤解していたことの申し訳なさよりも、いい方向に予想が外れたことの喜びの方が上回っていたのだ。

 サイクリング用の自転車は、想像以上にすぐ体に馴染んだ。少しの力でぐんぐん進んでいくし、頬に当たる風が気持ちよかった。
「そろそろ海に出るよ」
 二十分ほど黙々と漕いで、海沿いに出た。太陽に照らされた紺色の海の先で、波の点がキラキラと点滅していた。
「少し止まってもいい?」
 思わず大声でそう聞いた。佐々木さんは驚きもせず、立ち止まって振り返り、満面の笑みで頷いた。
「うん」
 ガードレール越しの海には、不思議な魅力があった。船ひとつなく、ただただ広い穏やかな海に見惚れていた。運動した後の深い呼吸が心地よくて、生きているという実感があった。
「いい景色だ」
「ね。私も、よくここで休憩するんだ」
 五分くらいそこで立ち止まった後、佐々木さんは「まだ走れる? 大丈夫?」と尋ねてきた。
「全然大丈夫。サイクリングって、いいね。思ったよりもずっと楽しいし、しんどくない」
 佐々木さんは照れ臭そうに笑って、自転車にまたがった。俺もそれに倣った。

 結局俺たちは十回以上休みながらも、三時間ほど走った。俺はくたくたになったが、佐々木さんはまだまだ余裕そうだった。
 佐々木さんは念入りにクールダウンをしながら、話しかけてくる。俺もそれを真似ながら、話を聞く。
「でも、最初なのに三時間も走れるなんてすごいよ」
「そうかな。でも明日とか、筋肉痛すごいことになりそう」
「そうならないためにも、ちゃんとほぐさないとね」
「何キロくらい走ったんだろう」
「40キロだね」
「そんなに」
「ロードバイクは、初心者でも少なくとも平均15キロくらいは出るから」
 数字はうまく頭に入ってこなかったけれど、たくさん走ったのだということだけははっきりとわかった。達成感があった。頭はあまり働いていなかったけれど、不思議と不快感はなかった。
 もしかしたら、恋愛も本質的にはこういうことなのかもしれない、と直感した。でもそれを口に出すのは憚られた。
「私は楽しかったけど、露木君はどうだった?」
「楽しかったよ。それに……」
 佐々木さんに対する勘違いも溶けてよかった、と言いたかった。でもうまく言葉にできなくてどもってしまった。
「そうだね。色々な発見があって、本当に楽しかった。今日は本当にいい一日だった」
「それはよかった。でもまだ終わってないよ」
 佐々木さんは心底愉快そうだった。距離が近いのも、今日この日は一切気にならなかった。
「晩御飯まで少し時間あるけど、お腹の減り具合どう? 私は食べてもいいかなぁくらいには減ってるんだけど」
「実は俺、腹ペコなんだ」
 素直にそういうと、佐々木さんは声を出して笑った。
「それじゃ、食べに行こう!」

「ねぇ。佐々木さんは何きっかけでサイクリングするようになったの?」
「んーとね。元々ひとりで運動するのが好きで……その、一輪車ってあるじゃん? 幼稚園とか低学年の頃はずっとハマってて、やっぱり大きくなってもそれやってるわけにはいかなくて、自転車に乗り換えて、それがずっと続いてるって感じかな。でもやっぱり、そういうちょっと特殊な趣味って人に言いづらくて」
「実は、皆そういう特殊な趣味のひとつや二つ持ってたりするのかな……」
「どうだろう……露木君にもそういうのあるの?」
「俺は……興味は広いけど、何かひとつに集中することはあんまりできない性質で。元々長い間入院してたこともあって、ひとりで室内でできる遊びは一通りやったかなって感じ。一応ピアノも弾けるし、絵も描ける。どちらもあまりうまくはないけれど」
「じゃあ露木君は、その点ではキャラ通りなんだ」
「キャラ通り……そうかもしれない。でも佐々木さんだって、意外ではあったけど、冷静に考えれば、サイクリングが趣味だとしてもキャラに合わないとは思わないよ」
「そうかな」
「素敵な趣味だと思う」
「ありがとう。そろそろ着くよ。走った後は、よくここでご飯食べるんだ」
 そこは個人経営の安い焼き肉屋だった。
「独りでここに来るの?」
「うん。変かな?」
「すごいね。うん。俺……ふふ。これはちょっとキャラには合ってないかもね」
「だよね……」
「でも、いいと思う」
「引かない?」
「引かないよ。運動した後に焼肉食べたいと思う気持ちは理解できるし、それが習慣になるのだって別に変じゃない。おかしいのは、常識の方だ」
「あはは……そう言ってくれると嬉しいな。嬉しいよ……ちょっと待って。少しだけ待って。というか、トイレ行ってくるから、待ってて」
 佐々木さんが涙ぐんでるのはわかってたし、ほとんど感極まっているのも察していた。きっと彼女は、とても大きな覚悟と勇気をもって今日という日に臨んだのだろう。この微妙な立地の場所も、知り合いには会いたくないという彼女の意志が感じられた。
 それにしても、どうして俺なのだろう?
……その答えは明確だ。俺だけが、周りの人間の馬鹿みたいな流れに逆らっていたからだ。意地でも、佐々木亜紀と関わろうとしなかったからだ。
 おかしいのだ。この世の中は。普通……俺が普通だと思う世界では、皆が自分の意志で行動を決定して、周りの人間に流される人間の方が珍しいはずだ。それなのに現実は、むしろ俺や佐々木さんみたいな人間の方が少なくて、目立ってしまう。その結果、別に恋人どころか友人になる必要のないような人間同士がこのように距離を縮めなくてはならなくなる。孤独だからだ。孤独……
「ごめん、待たせて」
「いいよ」

 佐々木さんは次から次へと肉を焼いていき、ばくばくと次から次へと口の中に放り込んでいく。しかししっかりお互いのテリトリーを守っているため、不快感はない。自分で焼いたものを、自分で食べる。そういう互いの自立した性格が見て取れた。
「やっぱ一番は上カルビだよね! あー! ほんと夢みたい! ずっと、こうしたかったんだ」
 箸をおいて、水を飲む。焼き網に何か乗っけておこうかと思ったが、やめた。会話する流れだからだ。
「友達と、二人で焼き肉?」
「そう! 遠慮せずに、好きなものばっかり食べて、大笑いしながら! あはは! あはは……」
 その笑いは少し乾いていて、悲し気だった。
「でも、普通の友達の中にも受け入れてくれそうな人、いるんじゃないの?」
「いないよ。いないんだよ。女子はすぐに噂広めるんだもん。信用できる人なんて、今までひとりもいなかった。もっといえば、彼氏を作ったって、本音を言えるわけじゃない。どうせすぐ広まっちゃう。それで勝手に決めつけられて、居づらくなる。普通じゃなくなったら、仲良くしてもらえなくなる。ねぇ、露木君。私はいつまでこんな風につらい想いをしていなきゃいけないのかな?」
 流暢に、ただ事実だけを語るような言い方は、余計哀愁を感じさせた。
「わからない。でも大人になったら……少しはマシになるんじゃないかな。その分、本当に寂しくなるのかもしれないけど」
 自分の声色がずいぶん女性的になっていることに気づいたけれど、驚かなかった。
「だから、恋人を作るんでしょ。好きじゃない人とでも、互いに寂しいから、その埋め合わせに」
 とても冷たい声だった。冷たすぎて、俺は少し驚いてしまった。引いてしまった。
「先に断っておくけど、俺はそういうの、ごめんだよ」
「わかってる。でも今はその話、したくないかな。やめとこう。ね、露木君。楽しい話をしよう。そうだ。今日はたくさん、露木君のことを知れたと思うんだ」
 俺は別にこの日、特別なことを言った覚えはなかったが……でもきっと無意識的に色々な自分を見せていたのだろう。佐々木さんが佐々木さん自身を見せた分、俺もずいぶん俺自身を見せたと思う。
「たとえば?」
「えっとね……言葉にすると難しいけど、意外と涙もろいというか……感じやすいというか、感受性豊かというか? そういうところとか、あと、まぁこれは予想通りというか、期待通りというか、もし違ってたら本当にトラウマになるレベルだったんだけど、多少変なことでも普通に受け入れてくれるところとか」
「本当に、すごい勇気が必要だったんだろうね」
「うん。でもこの機会を逃したら、少なくとも一年生の間ずっとあの息苦しい教室で耐えるだけの生活を続けるんだって、そう思ったらこうするしかなかったんだなぁって。息苦しかったんだよ、私。それだけだった」
「自分のままでいられない。いられる場所がない」
「うん。小学生の間は、許された。中学生のときに……わかんなくなって。高校に入ったら何か変わると思ったのに、変わったのは酷い方向にだけだった。自分より馬鹿な人たちに好かれて、好かれていることに優越感を感じているだけの生活。それだけしかなくて、自分の思ってることを誰にも言えずに……言えなくなれば言えなくなるほど、思うことはどんどん酷くなってって、余計誰にも言えなくなる。複雑になっちゃって、恐ろしくなっちゃって」
「全部吐き出せばいい。俺は……俺は、どうでもいいと思ってるから」
「うん。それが嬉しい。私、許せないんだ。許せない。何が許せないのかもわからないけど、でも、なんだか、何もかもが許せない。いやなの。友達が嫌い。嫌いだと思ってしまう自分が嫌い。つらい。男の子の話とか全然わかんないし、話合わせるのも疲れちゃうし……それなのにいい子ぶってないと、嫌われる。私、今の状況がどれだけ危ういかわかってるの。もし私が少しでも性格悪い態度取ったら、すぐに仲間外れにされる。だって私、モテてるから。みんな私のことを羨ましいって思ってる。私だって、最初はそういう状況に憧れてたけど、もう嫌。だって、怖い。みんな私を攻撃したがってる。だからその材料を与えないように、必死になって立ち振る舞ってる。私、怖い。許せない」
「うん」
「露木君は、何も言わないだね」
「何も言えないんだよ。だってそうじゃないか。簡単に解決できる問題なら、君はもうすでに解決しているはずだ」
「うん。そうだよ。そうなんだよ。どうにもならないから、言いたい。言いたいのに、今までずっと言えなかった」
「言えばいいさ。それで少しでも肩の荷が下りるなら、俺もそれを聞く甲斐があったというもんだ」
「露木君は優しいんだね」
「俺が優しいんじゃなくて、優しくない人間があまりに多いだけなんだ」
「そうかもね。そうだね。それってすごく悲しいことだね」
「でも仕方がないことだから、黙っていないといけない。それは俺も、佐々木さんも同じことだ。嘘つきに嘘つきって言っちゃダメなんだ。見破られた人間は、本性を表してこっちを傷つけてくる」
「うん。わかってるよ。だから私、騙されたふりしてる。騙されたふりして、騙してる。ずっと騙し合って生きている。ねぇ。でも私、露木君には嘘ついてない。ずっと、本当に思ったことだけを言ってきた。私……私、さ。フフフ。私何が言いたいんだろう? わかんないや」
「いいんだよ。無理に言葉にしなくたって」
 佐々木さんは静かに涙を流しながら、焼き網の上にまた肉をのっけた。もう涙をぬぐうこともやめて、自分の様子のおかしさに笑い始めてる。
 その姿はどこか幸福そうな感じがした。よく焼けた肉を口の中に放り込み、ご飯と一緒に味わう様は、綺麗だった。生きている人間という感じがした。涙を流して、笑って、好物の味を噛み締める。時々こちらの様子を伺って、微笑む。同じ人間なのだという実感が、とても嬉しかった。独りじゃないのだという気持ちになった。暖かい気持ちになって……こんな時間がずっと続けばいいと、嘘じゃなくそう思った。
 それを口にしたら、嘘になってしまいそうだから、俺は黙っていた。黙って、野菜と肉をバランスよく網に乗っけた。

「今日はありがとね」
 去り際に、差し出された手を俺は強く握った。別れ際の握手。暖かく、少し湿っていた。
「こちらこそ」
「また誘ってもいいかな?」
「もちろん、喜んで。今日は楽しかった。本当に」
「よかった。勇気だした甲斐があったよ。勘違いされるかもしれないって、怖かったけど」
「俺は勘違いしてた?」
「今はしてない。ありがとう。また明日、学校で。あ、でも学校では普段通りで、ね。私、露木君に迷惑かけたくない」
「うん。またね」
 独りきりの帰り道、手の温度が残っていた。俺はこの温度をどこかで知っていた。孤独がひと時癒されるのは、初めてじゃない。初めてじゃないはずなのに、うまく思い出せなかった。
 いつかこの日のことも忘れてしまうのだろう。でも忘れてしまったとしても、なかったことにはならない。その真実が、俺は嬉しかった。本当にいい一日だったと思う。


 ただ人生において、たった一日の素敵な日のおかげで自分自身の本質が大きく変わることはない。
 当然俺は、日曜日のことは好きだったが、月曜日のことは嫌いだった。昨日が素晴らしい日だったからといって、今日と明日が憂鬱でなくなるわけじゃない。
 俺は佐々木さんと過ごした日曜日の楽しみ分、きっちり月曜の朝は気怠くなった。筋肉痛はまだ大したことないが、恐らくこの後だんだんひどくなる気配があったし、佐々木さんとの関わり自体も、なんだかめんどくさく感じていたのだ。いや、もともとめんどくさかったのだから、そう思うのはおかしな話じゃない。昨日が特別な日だっただけで、今日が平凡な日だというだけだ。平凡な日とは、吐き気のする、気怠い、何も起こらない面倒なだけ日のことだ。
 時々、馬鹿な人間がそういう平凡さを「幸福」という名前で呼ぶが、それは単なるまやかしだ。だってそうじゃないか。こんな日々を永遠に続けるならば、戦争でも起こって死んでしまった方がましなのだ。「戦争の恐ろしさを知らないから」なんて反論するならば、病気で明日生きられるかどうかもわからないという経験をした俺は、戦争より病気の方が恐ろしいことを知っている。
 それは憎む相手もいなくて、誰も同情してくれなくて、一緒に戦ってくれる人もいなくて、ただすべてを偶然とよくわからない自分の肉体に委ねるしかないのだから。
 それでも、こんなつまらない毎日を送り続けるくらいなら、病気に慄く日々の方がマシなのだ。何も感じていないよりかは、痛みを感じている方がいいのだ。
「よう露木。相変わらず辛気くさい顔してるな」
「お前はなんで俺に突っかかってくるんだ」
 珍しく真鍋が少し考えるような仕草をした。
「そうだなぁ。なんでだろうなぁ。でも、お前がひとりでいると、なんかほっとけねぇんだよなぁ。寂しそうっていうか」
「俺が、なのか? お前が、じゃないのか?」
「ばっか。俺は別にお前以外にも話し相手いくらでもいるからな。ただお前が寂しそうにしているから、話しかけてやってるんだ」
 寂しそう、と言われて俺は自分を嘲笑った。確かにその通りだったからだ。しかし真鍋は人を見抜く力がない。
「お前、言っとくけど、俺を見下せるほどお前は立派なやつじゃねぇからな」
 嘲笑が、自分に向けられているものと勘違いしたようだ。
「俺は軽蔑してるんだ」
 自分自身を。
「そんなことしてると、ほんとに誰からも相手してもらえなくなるぞ」
「真鍋は、一生話し相手には困らなそうだな」
「なんかムカツク。お前の言い方」
 分かり合えないというより……理解できるだけの頭を持っていないのだ。お互いに、そうなのかもしれない。
 俺だって真鍋のことなんて何ひとつ知らない。こいつにだって佐々木さんのように人に言えないような自分の中の何かを持っているのかもしれない。思えば佐々木さんの趣味だって、別に変ったものではないはずだ。サイクリングも、ひとり焼肉も、別に理解できない趣味ではない。それなのになぜ、隠して生活しなければならないんだ?
 どうして、こんなに息苦しいのだろう。狭い教室に四十人弱。皆声は小さい。真鍋でさえ、ほとんど囁き声で話している。おかしいじゃないか。
「真鍋、お前誰にも言えないことって何かあるか?」
 俺は唐突に、じっと奴の目を見つめてそう言った。真鍋はすぐに目を逸らした。反射的に、何かを恐れるみたいに。
「あっても、お前には言わんよ」
「だろうな」
 直感的に、理解した。真鍋の視線の先には、女子の集団があったのだ。特定の誰かを見ているわけじゃない。ただ女性というものに対する、何か罪悪感のようなものがあるのがわかった。
「女か」
 俺がそうつぶやくと、真鍋は平然としたまま「なんでわかる」と言った。
「そんな気がしただけだ。別に」
 真鍋は黙ったまま俺の傍で遠くを眺めたままずっと立っていた。
 しばらくして、ふと。
「さっき、なんで俺がお前につっかかるか聞いたよな。その理由なんだが、お前は……人の秘密とか、噂とかを絶対に他人に言わない。お前と話すと、安心するんだよ。こんな正直な奴もいるんだなって」
「俺だって嘘くらいつくさ」
「お前は人のためにしか嘘をつかない。お前はお前自身のための嘘を絶対につかない」
 どう返せばいいのか分からなかった。
「おい真鍋! 昨日めっちゃ面白いことあったんだけど!」
 後ろから、別のクラスメイトが話しかけてくる。陽気な声だが、ボリュームは控え目で、驚きはしなかった。
「お、なんだなんだ? つまんなかったらお前、あれだかんな? 罰ゲームだかんな」
 真鍋はいつもの調子に戻って、俺の方から離れていく。俺は独りで、真鍋の言葉を噛み締める。
「お前はお前自身のための嘘を絶対につかない」
 自分のためにつく嘘……でも真鍋を含め、彼らは自分のために嘘をつこうとしているかもしれないが、ほとんどの場合それは裏目に出て、彼ら自身を傷つける結果になっている。佐々木さんだってそうだ。普通の人間を演じ続けた結果、あのように寂しくなって、俺のような関わりのない人間に希望を持たざるを得なくなった。
 どうして彼らはそこまでして、嘘をつきたがるのだろう? その嘘が誰かを救うわけでもないのに。そうやって嘘をついて、どんどん逃げ道が塞がれていくだけなのに。追い詰められていくだけなのに。


 憂鬱で退屈な日常。何も愉快なことはなく、たださっきの真鍋の言葉のような、小さい針で刺されるような言葉や気持ちだけが、刺激となって心に染み込んでいく。社会のおかしさ。自分の惨めさ。それなのに、人間を憎む気持ちにもなれない。同情しているわけでも、嫌悪しているわけでもなく……ただ小さな不快感と共に時間が過ぎ去っていく。

 どこか遠いところに行きたい気持ちだった。昨日のサイクリングのことを思い出すと、少しだけ気が晴れた。海沿いの潮風。堂々とした佐々木さんの背中。日本海の真上に浮かぶ真っ白な太陽。どこまで行っても構わない。どこまでも行ける気がする、あの気持ち。走り出したいと思った。
 思わず窓の外を眺めていた。雲が動物の形をしているように見えた。教室の蛍光灯が物悲しかった。黒板の緑色は、何も書かれていなくても薄汚れていて、社会というものの暗喩であるような気がした。気分が悪かった。
 それでも一日は終わっていく。


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