プルタルコス『饒舌について』


プルタルコス『饒舌について』


 最初の『いかにして敵から利益を得るか』と『饒舌について』を読み終えた。
 プルタルコスは、具体的な実例を出すことによって、自分の主張に説得力を持たせている。
 彼の思想の中心にあるのはストア的な「禁欲」「節制」である。何事も「行き過ぎ」は人を破滅させ、中庸を守りつつ、現実に即した生き方をすることを勧めている。

 感情任せに動かず、よい習慣を心掛け、真摯に、誠実に隣人と付き合っていく。彼のいうことは時代や文化に問わず人々が心から納得することで、それゆえ、人によっては「聞き飽きた説教」のように感じてしまうかもしれない。
 でも、何度も繰り返し人が忠告することには、常に傾聴に値する真理が隠されている。

 彼に反論したくなってしまうのは全くの若気の至りであり、素直に内省する方がいいと思う。いいと思うので、そうします。


『いかにして敵から利益を得るか』

 私は日常生活において、敵だと思う相手はあまりいない。それは当然「友」と呼べる人が少ないことも意味している。
 もし真に「友」と呼べる人が多いならば、「友の敵は自らの敵」でもあるはずだから。(でも本当にそうなのだろうか? これについての判断は保留しておく)
 私のやることなすこと批判的に攻撃する人も昔はいたけれど、今はもういない。私はそれについて、時々寂しく思う。傷つけられるのが好きだと思わないけれど、でもそうやって私の悪口を言う人がいると、それはそれで生活に色がつく。感じることや考えることが多くなるし、それに「悪口を言われても仕返ししない大きな自分」を演じる楽しみも増える。実際私が、悪口に対してにこやかに、友好的に接していると、私の友達は私を褒めてくれるし、先生でさえ私を尊敬してくれる。
 そういう意味では私は、プルタルコスに言われるまでもなく「敵の有用性」を理解していたと思う。敵が低劣であればあるほど、自分自身がいかに優れているか他に広く知らしめる結果になるから。

 まぁでも、自ら敵を作りに行くのはあまりよくないと思う。何というか、そういう攻撃性自体が……私らしくないのかな? それとも、もっと根本的な、人と関わるうえでの原則の話かもしれない。
 ともかく私は、敵が出来てしまった場合はそれはそれで喜ぶし、敵がいないのならばそれはそれで安心して日々を楽しめる。どちらも、よし。


『饒舌について』

 黙ることができない人が被る不利益や破滅をこれでもかというほど示されていた。まさに「口は災いの元」。
 実際の日本の歴史でも、ぽろっとこぼれた馬鹿な話のせいで人生を台無しにした人がたくさんいる。
 私は文章を書くときは色々と余計なことを書いてしまうけれど、実際に人と話すときはかなり口が固い方だと思う。まず人の秘密は胸にしまっておくし、悪口も全く言わない。いや……その、特定の人の悪口は言わない。
 「これこれこういうことを言ったりしたりする人は苦手だ」という話で盛り上がったりはするけれど、個人の悪口の話になると、私は口をつぐむ。当然、芸能人の話は基本的に一切しないし、そういう話で皆が盛り上がっている場合は、私はニコニコしながらうんうん頷いているだけだ。

 私は喋ることに関しては常に「バランス」を意識している。相手が話した分だけ、自分も話していいものとしている。
 基本的に私はおしゃべりな人間で、自分の知っていることや考えたことを、人に伝えたがる生き物だ。だからこそ、相手の言うことをまず先にちゃんと聞かないと自分も聞いてもらえないのを知っているから、まず相手の話に集中する。そして、そこからちゃんと繋がるように、自分の話をする。
 私はそれを当たり前のことだと思っているし、実際、ちゃんと聞くようにすれば、相手もちゃんと聞いてくれる。自分がしたい話の中から、相手も理解して楽しめる話を選んで話すようにすれば、相手は自然と私に好意を抱いてくれる。

 喋りたくないことは喋らないし、喋ってはいけない場面では喋らない。ずいぶん昔のことだが、何度か余計なことを言って痛い目を見たこともあるし、沈黙することがどれだけ利益になるかというのは、自分なりに理解しているつもりだ。

 文章のおしゃべりについては、多分ね、プルタルコス自身もそうだし、彼も後半の方でそれを擁護しているから、別にそんなに気にすることはないと思う。
「その知識に関して何かを書き、そうすることによって自分と対話をする、という習慣をつけるべきである(インヨー!)」
 実際に誰かに向かってやたらめったらに喚くよりは、落ち着いて文章にして、読み直す方がいい。

 私の言葉を見た誰かが傷ついたり嫌な気持ちになってしまうことはあると思う。当時と違って、今の言葉は簡単に知らない人の目に入ってしまう。でもそれに関しては、もうすでにどうにもならない問題でもある。
 つまり、私の言葉よりも酷い言葉があふれかえっているのがこの現代社会だから、私が何を言おうとそれで何かが変わるわけはないということだ。
 変わってくれるなら、変わってくれた方がよかった。私がいい言葉を使うことで社会が少しでも変わるのならば、私は大喜びだし、そもそも私は私なりに言葉を選んでいる。でも実際には、現実的に考えれば、私の言葉が影響するのは、私の狭い現実の社会生活の範囲だし、その中で私はそれになりに皆にいい影響を与えられていると思う。でもただっぴろいネット社会では、私の存在はちりのようなものだ。
 だから、私はここに現実では吐き出せないような、複雑で受け取り難いものを書き残し続けている。


 内省。私はやはり考えることが好きだと思う。本を読んで、自分の生活や生き方を省みるのが好きだ。
 「それに何の意味がある?」と問われれば「私は今、幸せに生活できている。こういう内省の積み重ねが、周りの人を大切にすることに繋がって、それが私を幸福にしたんだ」と答えたい。
 でもそれは嘘じゃないのかな? いや、嘘ではないと思う。確かに私が幸せを感じたり、人から好かれたりすることが多いのは、私が人の心を尊重することができる人間であるからだと思う。

 ま、社会とか常識とかは全然尊重しないけどネ!(現実ではこんなこと言えない><)

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