咲いた花はいずれ土に還る

 成長物語はウケる。雑に情けない劣った人格を持った人間を描いて、そいつが前に一歩進むような経験をでっちあげて、それっぽくまとめただけで、読んでいる馬鹿な連中は大喜び。
 なんてことはなく、そんな誰でも書けるような物語は、もう誰も読まない。ありきたりなストーリーにはみんな飽きているから「こういうものを書けばウケる」みたいなノウハウはもう全部売り切れ。パクリ、二番煎じはやる連中が多すぎて、人気は分散し、どうしようもない。

 小説家なんて目指さなければよかったと、今更ながら勝手に思っている。何を書いても、中途半端な評価しか貰えない。お世辞がお世辞だと分からないほど私も馬鹿じゃないし、何というか、自分のつまらなさにいつもうんざりする。


 つまらない人間のつまらない独白を好むような人間はどこにもいない。だから、小説の主人公は作者自身の投影であってはいけない。そんなのは誰でもできることであり、小説家を目指し始めた初心者がやりがちな過ちである。お前はお前が憧れている大文豪たちと違って、特別な人生を歩んできたわけではない。当然、特別な才能もなければ、特別な運もない。だから、お前はただ自分が書きやすい物語を書いているだけでは、絶対に成長しないし、評価もされない。

 誰が言っていたことだったかは忘れた。多分自称元編集者か誰かだろう。それはどちらかと言えば、自戒にも似た響きのある言葉であった。だからこそ、私自身にも少なくないダメージを与えた。
 でも、結局私は私以外の人間を描くことはできないし、私はどれだけ考えたところで、自分には面白い話は欠けないし、面白い人生を歩むこともできない。それでも、書くこと以外、私にできることはない。いろいろやってみたが、どれもしっくりこなかったのだ。
 ずっと続けられることは、ただ文字を刻むことだけ。誰もいない「意味の場所」に、自分の色を塗りたくることだけ。
 たとえ自分に才能がなくても、誰からも評価されなくても、それを続けることでしか自分を慰めることができない。希望に縋ることもできない。何もしないで生きていくことができるほど、強い人間ではなかったから、私は文章を書き続けている。

 結局私は私に似た人間を描き続けている。その苦しみとその喜びを、ただ自分が描きやすいように描いている。

 私の目にはそれが美しく見える。でもそれは、道端に咲いた花のようなものであり、金や誉め言葉を得られるものでもなければ、それを必要とするものでもない。見知らぬ人に踏みにじられ、それでも咲き続け、最後には時間に負けて土に還っていく。私の書く物語は、これまで全部そうだった。
 どれだけ真剣に書いたものでさえ、道端に咲いた花以上のものにはならなかった。それは綺麗だし、人を喜ばせることはできるけれど、時間とともに朽ちていくことしかできない。
 もしかしたら誰かの心を慰めることができたかもしれない。誰かの人生を決定的に、救い出すこともあったかもしれない。世界や運命は私が思っているよりずっと複雑だから、私にとって意味がないように思えることが、とても大きい意味を持っているのかもしれない。
 そうは言いつつも、結局私は私のやったことが無駄だったのだと思わずにいられない。私の努力は、生き方は、全て土に還るしかないのではないかと思わずにいられない。


 花は、「それでもいい」と太陽にその葉を向け、小さな旅人をその匂いと美しさで誘い続ける。

 私は一輪の花として生きることを受け入れなくてはならないのかもしれない。

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