自分の心を分割すること

 人格っていうのは粘土みたいなもので、その時々によって形を変えるものだと私は思っている。
 普通はひとりの人間の肉体につき、心(粘土)はひとつ、人によって固かったり柔らかかったりする。(固い人は『頑固』。柔らかい人は『影響を受けやすい』みたいな言い方もできるかもね)

「自分はすぐ性格が変わる」
「私は全然自分の性格が分からない」
 という人は多いけれど、実は当たり前で、人格っていうのは自分で決めて、固定させるものなんだと私は思っている。で、一度固まってしまえば、石から掘り出した石像のように、まるで昔からずっとそこにあったかのように思えてしまう。
 社会人には、そういう人が多いと思う。生活しやすい性格や人格のカタに、自分の心を当てはめて、そこで固定させる。運がよければ、それで人生全部うまくやっていける。
 でもみんながみんなそういうことをするわけじゃないから、人格がふわふわ変わりやすい人もいれば、『他には見られないような個性的なカタ』にうまくはまっている人もいる。(芸能人とかにはそういう人が多いと思う)

 多重人格について。
 その粘土が意図せずいくつかに別れてしまい、元のひとつの状態に戻らなくなってしまった人のことを多重人格者って呼ぶのだと、私は勝手に思っている。

●私の話
 私は結構自分の意志で、自分の性格をその場その場で作り替えることができるタイプの人間。柔らかくて、固くなることをずっと拒み続けているから、常に人格や性格を変え続けていないと、体調が悪くなる。
 多重人格者のようにふるまうことも出来て、同じように粘土にたとえるなら、私は自分の人格を引きちぎったりくっつけたりすることもできる。
 だから、何もいないところに話しかけて楽しんだり、ひとりでボードゲームを楽しむことができる。(子供のころから、なんでみんなはこんなに楽しい遊びをしないのだろうと不思議がっていた。人形遊びの延長線上)


●もっと詳しい私の話
 私の中には決まった形の精神の像があって、それに名前を付けている。(粘土のカタ、と考えてもらってもいい)
 「文香」や「理知」のこと(私の書いた話によく出てくる主要な人格)。他にもいっぱいいるけど、基本的には、脳の容量以上にたくさんの人格を同時に用意して会話させることは難しい。
 私の脳のキャパシティ的に、スムーズに会話できるのは調子いい時で五人まで。逆に言えば、五人まではしっかりした人格像を維持したまま、それぞれの思考回路をコピー、ペーストできる。(もちろん、かなり集中しなくちゃいけないので、長時間は無理)

 二人くらいなら常駐できるし、むしろずっと自分がひとつに統合された状態で生活するのは、なんかちょっとしんどいので(なんか息苦しくなるんだよね。吐き気を感じるというか)ほどよく自分の中に他人の像をわざと作っておくくらいで生活している。
 私がいきなりめちゃくちゃに笑い始めたりするのは、大体片方が面白いことを言い始めるから。別にストレス溜まってるとか病んでるとかのサインじゃないよ?

 ある意味、作家として才能があるってことなのかもしれない。多分、小説とか漫画とかを書いている人の何割かは、私と同じような精神構造をしてるんじゃないかなって思ってる。

 何はともあれ私は健康で、こういう状態が自分にとっての普通だと思ってる。

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