失われゆく繊細な言語的感覚
日常的に使われる語彙数が減っていることは皆常々感じていると思う。
コミュニケーションが簡略化され、より少ない言葉で自分の気持ちが伝えられるようになっていく。
そういう言い方をすれば悪くないような気もするが、実際のところその伝達の「精度」は落ちていく。
多くの単語を知っている者同士が、その細かい意味の違いを意識したうえで言葉を選んだとき、会話はとてもスムーズかつ楽しいものになる。
しかし互いに少ない単語しか知らないと、まるで子供同士の会話。感情のぶつけ合いとなる。
日本語は英語的になってきている。誰でもすぐに話せるし書ける。習熟の頭打ちも早い。
文章力といえば、語彙を増やすことよりも、比喩表現を巧みに用いられることをいうようになる。
少ない前提知識でより多くの感情や感覚を伝達する必要がある。だからこそ、日本語という言語が単純化されればされるほど、それを用いるスキルレベルがより重要になっていくという、一見奇妙に見える現象が引き起こされるのだ。
知識よりも、創造性。日本語はそういう方向にシフトしつつある。
大雑把な言葉が増えている。具体例を出すなら「ぴえん」「密」等々。
「切なくて泣きそう」
「辛くて苦しくて切ない」
「別につらくはないけど、雰囲気で」
「酷い目にあってんだけど俺www」
それぞれ微妙にニュアンスの違う感情であるが、どの場合においても「ぴえん」の一言で済んでしまう。
それは意志や感情の伝達というより、もはや呟きに近い。
言葉というより、ため息に近い単語である。
もちろんこういう言葉が悪いと言っているわけではない。これは感嘆符の一種だと思えばいい。
「あぁ!」
「おぉ!」
「すごい!」
「マジで!」
等と同じ言葉だ。それは昔からコミュニケーションの基礎に含まれるものであり、文章にしたら滑稽ではあるが、口に出して言う分にはそれほど不自然ではないと言える。
ともあれ、言文一致が進めば進むほど、文語はより易しく、大雑把になる。もともと話し言葉自体が易しくて大雑把な性質を持つのだから、影響を受ければ当たり前である。
文語は時間をかけて組み立てる言語であるから、話し言葉と分離されていればいるほど扱いが繊細となる。細かいルールと、意味の違いが重要視される。
言語の性質の価値や善い悪いはここでは取り上げないが、日本語はこの先どんどん話すように書かれることになることだろう。
今以上にテンポやリズムが重要視される。いかに簡単な単語の組み合わせで豊かに描写できるかということが重要になってくる。
読みやすさと分かりやすさ。話を聞くかのように、文章を読む。そういう風になっていく。
私は私自身の繊細な言語的感覚が、失われていくのを感じている。これも時代の流れであるし、受け入れるつもりではある。
言語的感覚が繊細でなくなったとしても、私の心の機微の繊細さまで失われるわけではない。
郷に入っては郷に従えというが、このごろは「郷」というより「時代」と言ってしまった方が正しいのかもしれない。
時代の中で生きるなら時代に従え。正に言語的繊細さに欠けた表現だ。ことわざの意味もどんどん変わっていく。
私は自分の文体をどうすべきか分からないでいる。昔の小説の真似をしても、ただ読みにくくなるだけだ。難しい単語は、自分が物知りであることをアピールするのにしか役立たない。読者はそのニュアンスの違いを嗅ぎ取れないから。
時代が違うのだ。そしてこの先どんどん……ニュアンスを比喩で表さなくてはならなくなる。
より美しい比喩を。より具体的な比喩を。
とりあえず当面はそれを意識して文章を書こうと思う。
まぁこの記事には一個も比喩入れてないけどね。
と思ったら、普通にあったわ。
「まるで子供同士の会話」
うーん。分かりやすさ偏重で美しさの欠片もない喩え。まぁ何を伝えたいかに合わせてって感じなんだろうね。うん。
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