知識について

はじめに

 私はいつでも言葉足らずなのだが、まぁ気にせず語る。これはあくまで私の頭の中で考えていることをそのまま記述したものなので、分かりやすくないし、そもそも論理的に誤った部分も多々見られると思う。
 あくまでここで語ることは、一種の雑談的なものとして見ていただきたい。
 「知識」や「学説」「論」ではなく、ひとつの「知的探求物語」を見るような気持ちで読んでいただきたい。

前置き

 とりあえずこれを読んでる方に、ひとつ試してみてもらいたいことがある。正二十面体を頭の中で思い浮かべてもらいたい。そのあとに、その頂点の数を数えていただきたい。

 ちなみに私はこれができない。まず自分の中の思考空間の中に、正確な正二十面体を設置して、それを動かしたり回したりすることがうまくできない。

 だが「正二十面体」と検索し、その頂点の数を調べ、それを記憶すれば、その問いに対して「まるで自分で考えて数えることができたかのように」答えることができる。
 
 それとは別に、多面体の特徴とそれに関する法則を覚えることによって、頭の中で思い描くことも、記憶して即座に答えることができなくても、自分で計算して導くことも可能である。
 それは高度な知識の使い方と言えるし、多くのことに応用可能な知識ともいえる。


 これを読んでいる方の中で、正二十面体に関する知識、数学的な方法論を全て除外したうえで、それを頭の中で、浮かべ、数えることのできる方がどれくらいいるのか、私は気になる。
 おそらくほとんどの人にとって、それは「どうやってもできないこと」だと思う。

 ただそれは能力の高いと低いの問題であると私には思える。というのも、同じことをサイコロ、つまり正六面体でやれば、大半の人はできることだからだ。サイコロを頭の中に思い浮かべ、頂点の数を数える。これなら、ほとんどの人ができるはずだ。それもできないなら正四面体(三角錐)でもいい。
 正二十面体の頂点の数を頭の中だけで数えられないのは、単なる脳の向き不向きの問題(性能の問題、という言い方をしてもいいかもしれない)でしかない。

知識について

 長い前置きになったが、私がここで建てたい問は、こうだ。
『知識』は、脳の向き不向き(あるいは性能)を補うのに役立つ。しかしそれによって、同じ場所(レベル)に立つ、ということはできるのだろうか?」ということだ。

 さきほどの例を用いて考えていこう。「正二十面体の頂点の数を数えよ」という問いにたいして、実際に頭の中で数えることのできた人より先に、知識と記憶力によって先に答えを導くことができたとして、それで、その相手より「優れている」ということになるだろうか。

 もちろんそれは、出題の意図と目的によって違う。単に「早く答えられること=優れていること」ならば、実際に数えられる人間よりも、しっかり記憶している人間の方が、そのルールの中では優越していると言える。
 しかしこのようなあらゆる「勝ち負け」「優劣」は、それが現実における「ゲーム」の内部においてしか決まらない。何かしらの基準が、その問いの前か、あるいは同時に立てられている場合においてのみ、有効になる。それ以外の場合(つまりゲーム外にある場合)そこにあるのは何か?


 ゲーム外、つまり外部によって目的が定められず、そこにあるのは単なる「問」のみである場合。そこでは「答えること」自体にも、価値も優劣もつかない。その場合において「正しい答え」と「誤った答え」は並列して存在し、それだけでなく「答えないこと」「問自体を疑うことも」も並列的に存在していると考えなくてはならない。あらゆる「すでに決定されたもの」はゲームを構成してしまうため、問のみしか存在しない場において、同じように「目的」は存在しない。

 このような場において存在するのは、両者の純粋な「差異」だけである。つまり「脳の性能的に優れているが、知識は持っていない人間」と「脳の性能的には劣っているが、知識は持っている人間」がそこにいるだけである。
 互換性を考えよう。知識は、後天的に「楽に」獲得可能である。対して脳の性能は、時間をかけて培っていくものである。知識によって補われている場合、ゲーム内において「勝つことができてしまう」ため、脳の性能自体を引き上げる必要性を、損なってしまうのではないか?

 脳の性能が高いことによって、知識が身につかなくなる、という道理は存在しない。というのも、先ほど語ったゲーム内の勝ち負け、優劣において、知識があった方が有利であるならば、脳の性能的に優れた人間も、知識を身に着け始める。すると、知識を持っていることは、前提と化す。そこで優劣がつかなくなる。
 知識とは平等主義的なものなのであろうか?

 記憶力や理解力、知識を用いて応用する力自体も、脳の性能による部分がある。
 そもそも知識とは、その根本的な、脳の能力における一部分の、付与物ではないのか?

 つまり、さきほど説明した「正二十面体を頭の中で正確に構成し、その頂点をひとつずつ数える能力」と並列的に「知識を理解し、利用する能力」が存在しているのではないか、ということ。その能力に付与することのできる「情報」として「正二十面体の頂点の数は、十二である」あるいは「面の数×ひとつの面に含まれる辺の数÷一つの頂点を共有する面の数という式及び、正二十面体の形を大まかに知っているということ」等を結びつけることによって、ひとつの答えを導き出しているのだとしても、それはあくまで「ひとつの導き方」なのではなかろうか?

 何が言いたいのかというと、そもそも「知識」には、それを生かすだけの「基礎能力」が必要なのであって、それが生かせるか否かは、「知っているか」ということに本質があるのではなく、その基礎能力が育っているか育っていないか、という問題なのではないか?

 もしこれが正しいのであれば、先ほどの問「知識とは平等主義的なものなのであろうか?」という問は否定せざるを得ない。同じ情報から引き出せるだけの「知識」の価値が、人それぞれ異なるからである。
 「知識を持つ」には「知識を保持する能力」が必要であり、「知識を持つ」ということ自体が「空間認知能力」などと並列して存在する、ひとつの長期間の努力を要する「脳の性能」の問題なのかもしれない。

 だとすると「知識不足」というのには、二種類存在することになる。
 ひとつは「その情報を受け取り、扱えるだけの前提能力はあるが、その情報自体にまだ触れていない」という、知識不足。
 もうひとつは「その情報自体に触れているか否かは問わず、その情報を受け取り、扱えるだけの前提能力が欠けている」という、知識不足。

 厄介なことに、この二つは、一目で判断できるものではない。どちらも、外見上は「知らない」「答えられない」という点では変わらないからだ。(しかも、この二つは白と黒というように真っ二つに分けられるものではなく、ボーダーレスの関係にあるように思われる。つまり、そもそも「前提能力」というもの自体が「ある」「ない」ではなく「高い、低い」という相対的なものでしかないのだ。それは二者の間で優劣をつけることは比較的簡単であるにせよ、全体の中で優劣の基準を作ることは難しいうえに、そもそもその「情報」自体の質によって、必要とされる「知識の吸収力」も、その「色(ここではそう表現する。同じ速く走る能力でも、単距離走を速く走る能力と、長距離走を走る能力が異なっているように、おそらく「情報」をうまく知識化する能力も、さらに細分化されうると思われるので)」も異なる)

 「知識」=「情報」という図式は、おそらく誤りである。
 「情報」→(それを受け取る人間の能力による変換作業)→「知識」というようになっていると私には思われる。
 
 最初の問いに立ち返ろう。
「『知識』は、脳の向き不向き(あるいは性能)を補うのに役立つ。しかしそれによって、同じ場所(レベル)に立つ、とうことはできるのだろうか?」
 「同じ場所(レベル)に立つ」ということが「同じ程度の能力を持つ」という意味で捉えるならば、明確に「否」である。同じ答えを導くことができたとしても、その導き方が違うのならば、その能力の程度も異なるため、それを「同水準」と判定することは不可能である。
 「同じ場所に立つ」ということがゲーム的な意味である場合は、先ほど説明したように、そのゲームの内容によっては可能であるし、それだけでなく、知識がある方が、知識なしに導き出せる場合より優越することもある。ゆえに、それは可能となる。

 そもそもの前提として「『知識』は、脳の向き不向き(あるいは性能)を補うのに役立つ」と語ったが、それ自体が誤りであるのではなかろうか? というのも、先ほどの考察によると「知識」は常に、それにまつわる能力の介在があり、あくまでそれは「あるひとつの能力によって、別の能力を補っている」ということなのだから、それは「『脳の向き不向き(あるいは性能)は、知識(とそれにまつわる能力)を補うのに役立つ」という命題をも肯定しなくてはならなくなるし、その場合においては、その表現自体が不適切、つまり「知識」と「それ以外の能力」を分けること自体が、ナンセンスかもしれない、という疑いが生じてくる。

 そうなるとやはり「知識で補うことが不可能な能力」や「知識以外の能力で補うことができない知識」というものの存在について考えることも必要になってくる。
 いいや。もう疲れてしまったので、ねちねち推論するのはやめて、結論をさっと語って終わりにしてしまおう。

結論

 あらゆる能力は互換不可能である。しかしゲーム内(目標と条件が課せられた場合)において、能力は「使われるもの」となるために「互換可能であるかのように」振舞い始める。
 逆に言えば、ゲームの目標と条件によって、あらゆる能力はその互換不可能性を暴露することができる。

 知識とその他の能力が互換可能に見えるのは、ゲーム内における錯覚である。知識はあくまで能力に付随するものに過ぎず、それは「ゲーム内における道具」である。
 道具を扱う能力がなければ、道具には価値がない。もっといえば、そのゲーム内において「道具を用いてはならない」という条件が課せられた場合では、その道具は何の役にも立たない。
(誤解なきよう補足しておこう。我々の現実世界における行動のほとんどは『ゲーム的』である。ゆえに『役に立つ』という言葉自体が『(ゲーム内において)役に立つ』というかっこを含んでいる。私は知識を、能力以下のものとして見ているのではなく、あくまででその、能力と知識の関係性を明らかにしているだけである)

感想

 私は自分の言葉の曖昧さに時々気分が悪くなるけれど、でも「正確な言葉」を用いて話そうとすると、また別の意味で気分が悪くなる。
 私はあまり論理というものを重視していない。そもそも理性とは何だ? 悟性とは? 私の語っていることは理性的だろうか。論理的だろうか。私はそれを判定するすべを持たない。私は「論理」も「理性」も曖昧さのうちに帰してしまう言葉であるような気がしている。あらゆる説明は、その曖昧さを晴らすことだけでなく、かえってその語の曖昧さをはっきりさせてしまうこともあるのではないか、と私には思える。
 どれだけ言葉の意味を先に限定させても、それはあくまでその言語ゲーム内における限定にすぎず、日常生活的な「あいまいな言語」との互換性は失われるのではないか? その場合における「限定された言語内における理解や決定」は、日常生活に何か益をもたらすことができるのだろうか?
 曖昧さはむしろ、曖昧さとして尊重すべきなのではないか? 曖昧さ自体を、そのぼんやりとした用法自体として理解し、扱った方がいいのではないか?

 「語ること」というゲーム内において、私たちが設定すべき目標と条件はいったい何であろう。私が最近ひとりで悩む問は、それである。

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