後ろめたさを感じる時
顔色が悪い同級生を見ると、後ろめたさを感じることがある。
もっといえば、今にも倒れそうな様子のサラリーマンを電車の中で見た時も、そうである。
私は今現在気楽に生きているし、絶対ではないものの、この先も安心して生活ができる目途が立っている。
私は恵まれた環境で育って、努力もやった分以上に認められてきた。だからこそ、そうじゃない人を見ると、同情心が湧いてくる。
「私は一体何をやっているんだろう?」という気持ちが湧くのは、そういう人たちを見た時だ。
なんだか自分が、存在しているだけで不正を行っているような気持ちになる。自分も彼らと一緒に不幸にならなくてはならないのではないか、という嫌な考えが頭に浮かんでくる。
恥ずかしいことだ。
私はそういう後ろめたさや同情心を、乗り越えるべきだと思う。それは弱さであるし、私自身と私の周囲を不幸にするものでもある。
「全ての人間は、苦労をしているべきだ。全ての人間は、義務を果たしているべきだ。全ての人間は、社会に貢献しているべきだ」
そういう考え方は息苦しいし、誰も喜ばない。誰も笑えないし、そもそも現実的じゃない。それは最悪に近い思い付きであると、私はそう思う。
捨てろ、平等を求める思想を。
捨てろ、同情を賛美する弱さを。
捨てろ、偽造された優しさを。
優しさは義務であってはならない。それは気まぐれか、意思に基づいた行為でなくてはならない。
私は後ろめたさを消し去ってしまいたい。一緒に悲しむことができないのならば、そもそも関わりたくない。
私には私の地獄があるが、彼らの地獄も一緒に見て回ることは私にはできないし、したくない。
そもそも彼らの地獄から目をそらすための言い訳として自分の地獄を持ちださなくてはならないことにうんざりする。
同情なんてしたくない。
追記:実際のところ人間はどれだけ不幸そうに見えても、それなりに楽しさを見つけ出してそれを大切にできる生き物である。それが「人の不幸を笑うこと」だったり「お酒やギャンブルでごまかすこと」だとしても、その人自身の決定である以上、その人を不幸だと見なすのはおかしな話だ。
本人が「私は不幸である」と言ったとしても、それがどれだけ本心から来た言葉だとしても、私はやはりその人に手を差し伸べるべきではないのだ。
彼らの地獄は彼らの地獄で、私の地獄ではない。だから、彼らを助け出そうなどと考えるのは悪趣味だし、大乗仏教の坊主にでも任せておけばいい。
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