空しさから逃げない

 人は空しさを感じると無意識的に気晴らしをしようとする。
 仕事をしたり、勉強したり、人と話したり、本や漫画を読んだり、ゲームをしたり、文章を書いたり。

 結局それは一種の逃避行動なのであるが……実のところ、逃げること自体はその人にとって常に不利益になるわけではなく、むしろひとつの強力なモチベーションになりうるものである。
 人は恐ろしいものから逃げるとき、より速く走れるようになる。空しさを恐れる人間は、エネルギッシュであることが多い。

 ただ絶え間ない空しさや孤独感にさいなまれ、慣れて、逃げることをやめてしまった人間というのも存在し、そういう人間は基本的に無気力で、皮肉的である。頭がいいことも多い。(結局のところ、考えるというのは立ち止まったりゆっくり歩くことが得意な人間のすることで、空しさを恐れる人間は、長く考え続けることができないのだ)

 考えることにエネルギーを使うと、その分動くことが難しくなる。頭のいい人間は基本的に単純労働や肉体労働を行うことが、できなくなっている。他の人たちと同じように全力を尽くそうとするとすぐに疲労してしまうので、手を抜かなくてはならなくなる。
 もちろん頭のいい人間というのは、極度に利他的な気質を持っている場合を除いて、自分にとって楽な道を進もうとすることが多いので、あまり長時間動く必要のない職に就くであろうし、それがない場合は、自分で何らかのシステムを作って金を稼ぐことも多いと思う。だから、頭のいい人間が活力に満ちておらず、怠惰な気質を持っていて、よく手を抜いていたとしても、それは問題にはならないのだ。

 頭をよく使う人間で、不幸せでない人間を私は見たことがない。頭がいいということは、それだけで基本的に不幸である。気づかなくていいことにまで気がつき、考えなくてもいいことまで考えてしまうからである。
 もしその人が幸せそうであったとしても、その人はあくまでその賢さを自分が幸せになるために使った結果幸せなのであって、それによってその性質による不幸が中和されていたとしても、やはりその人間の不幸な部分、根源的な苦しみ自体が消えてなくなることはない。

 考える人間は、それだけ多く苦しみ、不幸になれる人間である。


 結局のところ人間のというのは、自分の生まれ持った気質や才能を肯定せずにいられない生き物である。それは肉体による精神への要請であり、必然性でもある。私たちは常に自己肯定的であろうとする。
 私も例外に漏れず、私は私の頭の良さ、つまり考える能力のせいで苦しんでいるわけだが、私はその苦しみを肯定的に捉えるしかないのである。

・頭を使うこと=求めるべき(善)
・苦しみ=避けるべき(悪)
・頭を使うこと(善)=苦しみ(悪)

 このような矛盾をほどくためには、この三つの方法が考えらえた。

・頭を使うこと=避けるべき(悪)とすること
・苦しみ=求めるべき(善)
・頭を使うこと(善)≠苦しみ(悪)

 このうちどれかひとつを採用すれば、矛盾は解消される。まず矛盾を解消しようとすることや、このように頭を使って考えていること自体が、ひとつの「頭を使うこと」であるのでまず第一の条件は排除されなくてはならない。私はそもそも自分の能力を捨てることもできないので「頭を使うこと=避けるべきこと(悪)」とすることは、不可能なのだ。
 残るのは二つの道なのだが……三つめは、はっきり言って観念ではなく感覚であるため、私の意思や思考で操作できるものではない。「頭を使うこと自体が、私の苦しみに原因になっている」という考えが勘違いである可能性自体そもそも否めないので、肯定も否定もできないのだ。
 そこにあるのは「頭を使って考えることのできる自分は、苦しむことの多い自分である」という現実だけであり、これはその解釈に過ぎない。だがその解釈内部において、決定的な自己矛盾に陥っていること自体が、私にとっての苦しみなのである。
 必然的に、私は残った考えを採用するしかなかった。
・苦しみ=求めるべき(善)

 私はこの考えを深めるために、その苦しみを分解して考えた。あらゆる苦しみを求めていても、それは何の利益ももたらさない。利益をもたらす苦しみとは何であろうか? 私自身の体にとって意味のある、価値のある苦しみとは何であろうか? 私はそう考えたのである。

 それは「私の苦しみ」である。私自身が、感じずにいられない苦しみ、それを私は「善なる苦しみ」と呼び、受け入れ、避けるのではなく、むしろ欲して生きるべきだと、私はそこでひとつの確信に至ったのである。

 そしてこれはおそらく、それぞれ苦しみに喘ぐ多くの他者にも同じことがいえる。自前の苦しみは、つまり誰かから苦しめられているわけではなく、自分自身が原因で苦しんでいる苦しみは、価値のある苦しみであり、欲すべき苦しみである、ということだ。
 逆に言えば、他から引き起こされる苦しみは、ほとんどすべて価値のない苦しみであり、避けるべき苦しみである。
 受動的苦しみは避けるべきであり、能動的苦しみは欲すべきである。そこまで考えれば、この考え方はいたって自然であり、単純な同語反復であることも理解できる。
 私たちは、逃げることのできない自らの根源的な苦しみは、与えられたものではなく、自ら欲したものだと、認識を転換せねばならない。そして、それを消し去ろうという努力は、行うべきではない。それはまた別の、新たな根源的な苦しみを産み出しかねない。(もちろん、そのようにして新たな苦しみが生まれた場合、それはやはりあなたが選んで産み出した苦しみなのだから、それを自分が求めていたことを己に認め、それを大切に抱きしめることでしか、自分自身を肯定するすべを持たないであろう)

 私はこの世界から全ての苦しみがなくなってしまうことは欲しない。だが受動的な苦しみは、できる限り小さくしておいた方がいいのではないかと疑っている。私は他者から気分の悪いものを押し付けられるのは嫌いだし、他者に対して押し付けることも嫌いだ。私のことで不快になるしかない人間は、私自身だけで十分だ。
 私の文章を見て不快に思ってしまう人はいると思うけれど、それは偶然の事故であり、私には責任がない。私はこのような時代でしか生きられない生き物であるから、それは許してほしい。

 私が欲するのは、その人自身が自ら望んで私の文章を読み、傷つき、苦しみ、その気持ちを大切にしてくれることだ。
 能動的に苦しみを受け取ること。引き受けること。共に生きること。私たちはそれぞれ固有の苦しみを抱えて生きているし、そうであるべきだ。そして、人の苦しみに触れたいと思った人間が、好きな時にそれに触れることができるというのは、意味のあることだ。価値のあることだ。
 人を理解するというのは本質的に、その人の消えない苦しみや傷を己のものとして受け入れるということなのだ。

 私は、私が好きな人のことは理解したいと思うし、同じように、私のことを好きだと思う人には、私のことを理解していてほしいと思う。

 固有の苦しみには、喜びや幸せと同じくらい価値がある。皆が否定しても、私はそれを主張し続ける。

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