意地悪な人がこんなことを言った

意地悪な人が昨日こんなことを言った。

「社会に参加しようとしないやつは、ダメなやつだ。未熟で、無責任で、感情的な、怠け者だ。病人で、邪魔者で、存在していてはいけないやつなんだ。そういうやつはみんな病気だから、病院に行って、薬を飲んで、正常にしなくちゃいけない。お前もこんなところでぼーっとしてないで、病院に行け」

誰が誰に言ったのかはよく分からないけど、それが意地悪な言葉だってことは分かった。それを言った人が、人に意地悪をして喜ぶ人だっていうこともよく分かった。
あとその人が「社会で生きることはしんどいことだ」と思いながら「社会で生きることは正しいことだ」と思っていることにも気が付いた。その人は、自分の中に矛盾した感情を抱えているんだと思った。

そのあと、お兄さんが、私にこう尋ねてきた。

「でも、社会が正しいって言うのには、どんな根拠や論理性があるのかな? それって、感情論なんじゃないかな?」
確かにそうかもしれないと思った。今までずっと社会を信じてきて、他の人も社会は正しいんだっていうから、感情的に、社会は正しいということに決めてしまっているんじゃないかなぁって。
「そもそも、社会なんて本当に存在するのかな?」
そんなことを言ったら笑われちゃうよ。
「でも、社会っていうのは、みんなが信じているからそこに存在できるものじゃないか。生物がいなかったら存在しないものなんて、神様や仏様とそう大して変わらないんじゃないの?」
確かにそうかもしれない。
「だから、実は彼らは『私たちが信じている者と同じものを信じなさい。そうじゃないと救われません』って言っているんじゃないかな?」
でもそれは嘘だよ。
「そうなんだよ。それは嘘なんだよね。人生に目的なんてないし、人類の生存に意味もない。お金も地位も名誉も、死んだら全部なくなっちゃう、一瞬の栄華。社会っていうのは、みんなでお金と地位と名誉を分け合いましょうねっていう約束なんだよ。欲しくない人は、参加する理由もないんだ」
それがないと生きていけないっていう人もいるよ?
「生きていけないかもね。でも、死んだっていいんだよ。生きることに意味なんてないんだから、嫌なことをしてまで生きる理由なんてないんだよ。苦しい思いをしてまで生きる理由もないし、悪いことをしてまで生きる理由は、もっとないんだ。だから、自殺してもいい。むしろ、自殺するのがいい。もし僕たちが、ちゃんと生きられないなら、死んでしまった方がいい。それが生命に対する誠実さだと、僕は思うんだ」
でも人は、自殺してはいけないよと言うよ。自分の意思で生まれたわけじゃないから、自分の意思で死ぬのもダメだって。
「その人はただ、自殺をしてしまうような人がどんな気持ちになっているか想像できないんだよ。その人はただ、自分が自殺をしないでいることを責められたくないから、自殺をする人を責めようとするんだ。自殺をすることは罪だということにしとけば、生きている自分は、どんなことをしても罪深い存在じゃないような気がしていられるから。実際、生きていたら、たくさんの悪いことをしなくちゃいけないことがある。自覚があっても、自覚がなくても、私たちは、誰かを傷つけたり、悲しい気持ちにさせたり、そういうことを繰り返しながら生きていくしかないんだ。それが嫌になって、死んでしまって、自分が死んだことによって人を傷つけたり悲しませたりしても、別にそれは、罪なんかじゃないよ。生きることが罪じゃないなら、死ぬことも罪じゃないんだよ」
でも、お兄さんの言っていることが正しいなら、世の中の人はもっとたくさん死んじゃうことになるよ。
「それでもいいんだよ。僕らは、死ぬつもりがないから。誰かに恨まれて殺されるなら、それでもいいし。僕たちは、殺されるその日に、殺してきた人にこう言おう。『あなたに罪はありません』と。それが僕たちの美しさなんだよ」
社会に罪はないのかな。
「罪は、罪を裁く人間にだけあるんだよ。人を裁くなら、人から裁かれなくちゃいけない。だから、社会には罪がある。社会はいつも人に罪を押し付けているから。
 実は病気も同じでね。人を病気だと言う存在は、その存在自体が病気だと言われても、文句は言えないんだよ。だから、お医者さんはみんな病気を疑われているし、実際に病気であることも多いんだ」
私たちは病人かな? 罪人かな?
「僕たちはまだ病人だし、罪人だよ。まだ物事を、正しいとか間違ってるとか、罪があるとか罪がないとか、そういう風に見ようとしてしまう。僕らはまだ、裁かれる人間なんだよ。社会が僕らを許すかどうかは、僕ら次第ではないんだよ。彼らがどこまでを『病気』として扱うかによって、僕らが病気かどうかは変わってしまう」
私たちは多分、社会がちゃんとしてたら、社会の一部としてちゃんと歯車できてたんだろうね。
「ちゃんとしてるっていうのがどういうことかは分からないけど、でもそういう制度があったら、ほどほどに関わって行けただろうね。でももう何もかもが遅いんだよ。これまでも、これからも、僕たちは裁かれるのを待っているんだ」
いつか病院に連れていかれちゃうのかな?
「その時は、おかしいと思ったことを全部おかしいと言ってみよう。その気になれば、お姉さんから論理の力を借りて、彼らの信じている学説や常識の矛盾点を暴き出して、お医者さんの中に疑念の種をばらまこう。そうだね。僕らはその気になれば……小さなコミュニティくらいなら、乗っ取れると思うよ。誰も気づかないうちに、皆が僕らの思い通りに動くようになる。病人の特権だね」
それは間違ったことじゃないのかな? それはやっちゃいけないことなんじゃないのかな? それは……単なる自分自身に対する過大評価なんじゃないかな?
「いつか分かるときが来るよ。この世はね、みんなが思っているほどがっしりしたものじゃないし、みんなっていうもの自体もまた、いつも半分くらいは病気で、すぐに変わっちゃうものなんだよ。簡単に洗脳できるし、思い通りに操ることもできる。アリさんたちの歩く道をコントロールするみたいなものなんだよ。習性を理解して、彼らが自ら望むように道を作ってあげれば、来てほしいところにアリさんたちは来てくれる。人間も同じなんだよ。人間も、動物なんだから」


また今日も、意地悪な人が言った。
「社会に参加できない人間は、ナルシストばかりで、感情をコントロールできない幼稚な人間だ。人格破綻者ばかりだ」

私はあわてて耳を塞いで、お兄さんを呼び出した。

私はナルシストなのかな?
「ナルシストっていうのは不思議な言葉だね。たとえば人間の利己主義は、社会において正常なものとされているよね。人を騙したり、支配したり、搾取したり、そういうのは、病的な人間の在り方じゃなくて、正常な人間の在り方だとされているよね。だって、もしそういう利己主義を病気だってしてしまったら、この世の人々の八割九割は、みんなひどい病気を患っていることになってしまうからね」
じゃあナルシストっていうのは、利己主義のことじゃないなら、何のことなの?
「たいていは、盲目のことを指しているよ。つまり、周りのことが見えていないから、自分の利己主義的衝動を、うまく抑えることができないんだ。自分の利己主義のことばかり意識していて、他者の利己主義を想像できないから、それに配慮して、ほどほどに自分の利益を得ることができないんだ。他の人のことを無視しちゃうから、他の人から反感を買いまくることになるんだ」
でもそれなら、自己愛が強いせいでそうなっているんじゃなくて、頭が悪いせいでそうなっているんじゃないの?
「そうだよ。本当のところナルシズムっていうのは、頭や目が悪いことによる病気であって、自分のことが好きすぎる病気ではないんだよ。自分のことが好きじゃないふりをしている人ほど、人を好きになることによって、自分が得をしようと考えているからね。ただ自分を愛するってだけのことであれば、何も病気とは言えないんだ」
じゃあ、人格破綻者ってどういうことかな?
「それも似たようなものだよ。他の人とうまく関係を結べないような人格を持っている人が、破綻していると思われてしまうから、そう定義されているだけ。その本人は、それが破綻しているものだとは思っていない。時には、正常な人間が、また別の正常な人間を、破綻していると決めつけることも少なくないし、それも人間の通常の社会生活に含まれるから、実はあまり真面目に考えても仕方がないことなんだ」
でも、明らかに人格が破綻しているって思われているような人はいるよ?
「それは、生活に悪影響がどれくらい出ているか、という程度で決まるんだ。社会に悪影響が、という意味でもいい。許容できないレベルになったときに『矯正が必要』と判断されて、病名がつく。だから、僕らのこの知性も、自由精神も、彼らが危険だと判断したなら、病気として定義され、治療が施されることになるんだよ」
でも、賢すぎることが病気だとしたら、これは伝染病だよ? 治そうとした人が、私と同じ病気にかかっちゃうよ? そうならないように、耳を塞ぎながら治療を施そうとするのかな?
 私は知ってるんだよ。いつか、私たちのような状態が正常だと定義されるようになって、今私たちに敵意を持つ人たちの方が、病的だと言われる日が来るんだって。
ほら、第二次世界大戦時のナチスドイツを崇拝してたあの善良な一般的なドイツ国民が、もう私たちからしたら、病人に見えるように。
天皇陛下万歳って言いながら死んでいった、私たちのご先祖様を、病気の人間を見るかのような気の毒さで眺めるように。
「天皇陛下万歳! 大日本帝国のために死んでいった人たちを、私たちは心のどこかで馬鹿にしている。アメリカのために死んでいったアメリカ人も、ドイツのために死んでいったドイツ人たちも、ソ連のために死んでいったソ連人たちも、心のどこかで馬鹿にしている。それは遠くから眺めてみると、大体似たようなものに見えるし、それら全部が、私たちの大好きな平和や調和に反しているもののようにも見えるからね」
でも、社会のために生きている人たちは、彼らとは違うのかな?
「難しいね。戦争のための国家なのか、国家のための戦争なのか。国民のための国家なのか、それとも国家のための国民なのか。『こうじゃなきゃいけない』みたいな寝言はいくらでも言えるけど、実際に動いているものを見ている限りは、だいたい悪い方でとった方がよさそうだよね」
厭世主義は、病気なのかな?
「行き過ぎた厭世主義は病気だけど、行き過ぎた楽観主義も病気だよ。実は、行き過ぎた現実主義も病気なんだ」
もしかして私たちは、行き過ぎた現実主義者なのかな?
「現実主義に殴られた僕ら夢想主義者は、さらに強い現実によって、現実主義を木っ端みじんに粉砕したくなったので、そうした。それで僕らは、脆い現実を壊して安心し、また夢想の中に戻っていったはいいけれど、現実はすぐに復活してきて、僕らをうんざりさせる。あの意地悪な人たちのことだよ」
あの人たちをまとめて狂わせてやりたい。二度と私たちに馬鹿なことを言わないように、口を縫い付けてやりたい。
「発言権は、力と共にあるんだよ。現代では、数が力だ。彼らの方が多いから、僕らがどれだけ正しいことを言っても、その意見が尊重されることはないんだよ。逆に、その気になれば彼らの方が、僕らをいつでも黙らせることができる。病院に無理やりぶち込んだりしてね」
病院を丸ごと病気にしてしまえたらいいのにな。
「多分ね、僕の考えだと、そういうこともこの先増えてくると思うよ。病人が医者を病人にして、まだ病気じゃない人が病院に連れていかれて、そこで病気の医者に診てもらったせいで、病気がうつって本当に病気に罹ってしまう。それでみんな楽し気に『一緒に治していきましょうね』と言って笑う。幸せそうじゃないか」
私は、病気だと言われてしまったかわいそうな人々に、元気を出してと言いたい。
「その気持ちはよく分かるよ」
この社会から冷たく扱われている人たちや、力の前で、自らの無力に悩んでいる人。善悪に囚われ、自分なりにより呵責ない人生を歩もうとしている人。私は、そういう人たちのことが好き。難しいことを考えている人が好き。正常な人たちから理解されない人が好き。間違っている人が好き。正しくない人が好き。
「君は時々たくさんの嘘をつく」
うん。そういう人たちは、私を傷つけないけど、私をうんざりさせることは多いから、好きなのは本当だけど、その人たちのために何かをしてあげるつもりはないんだ。励ましてあげることはできるかもしれないけど、キスはしたくないな。


意地悪な人たちは、いつか自分が言った意地悪なことを思い出して後悔するのかな? 自分が言った意地悪なことを、いつか自分が別の人から言われることになって、それに傷ついたりするのかな?
それとも、見苦しくも「仕方ないことなんだ」とかって弁明し始めるのかな?
不機嫌になって、周りの人間をみんな自分のご機嫌取りの道具にしようとするのかな?

どうであったとしても、私は意地悪なことを言う人とはもう関わりたくないんだ。そういう人たちが「私たちは正常です」という顔をして生きている世の中なんて、まっぴらごめんなんだ。
「人はそれを、完璧主義とか、潔癖症とか、そういう風に呼ぶかもね。わがままだって言うかもね」
うん。それでもいいんだ。私は開き直っちゃう。だってそれが私の個性だから。私は綺麗なままでいたい。意味もなく誰かを傷つけて悦に浸ったり、間違っているかもしれないことを自信満々に「正しいんだ!」って主張していたくない。それが生きることに必要だとしても、私はできるだけ、それが必要にならないような生き方を選びたいんだよ。
その結果余計に人や自分を傷つけたり、利益を損ねたりしても、構わないと思っている。
利益や幸せよりも、私自身が私自身であることの方が重要なことなんだよ。
「僕は、君は正しいと思う」
私も私が正しいと思う。他の人はそう思わないと思うし、それでいいと思う。これは私だけの正しさだから、それを人に押し付けようとは思わない。
ただ私は、このように生きるという、それだけのことだから。

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