今日も今日とて気ままに思索

 神なき民族、日本人。

 別に日本人に限った話ではなく、神を信じていて当たり前という文化に触れたことのない人たちはみんなそうなんだけど。

 一神教というのは、我々日本人が思っている以上に深く、複雑な信仰である。(宗教ではなく信仰とあえて表現する)
 その歴史は長く、長いだけでなく、太く、力強く、恐ろしいほどに人間の足を引っ張ってきた。(引っ張るというのは、邪魔をするという意味だけではなく、引き上げるという意味合いも含む。なぜ科学が、中国でもインドでもなく、一神教の勢力圏の中で発展したか考えてみるといい。我々の時代の高さは、はっきりいって、西洋に起源を持たざるを得ないのだ)

 日本人はそのような「西洋から与えられたもの」によって社会秩序を構築しているにもかかわらず、ろくに西洋的な歴史観もなければ、そこに含まれている精神の血液というものを、ないものとして扱おうとする。

 日本人はあまりにも「非哲学的」である。日本人はあまりにも「疑う」ということを知らない。「受け入れられない」という感覚が分からない。考えること、述べることによって、決定的に世界を「変える」ということが分からない。

 それだけでなく「すでにそこに存在するものを、分かりやすいように捻じ曲げる」ということもきっと理解していないし「私たちがどれだけ考えたり動いたりしても変わらないものがある」ということもきっと理解していない。

 一神教に関連して、私たちにはっきりとあると分かるのは「唯一であり善良なる神がいてほしい」という願望だけであり、私たちの浅く狭いものの見方は、簡単に、その願望とキリスト教をイコールで結びつけてしまう。
 私たちはユダヤ、キリスト、イスラムの繋がりをほとんどと言っていいほど教えられず育ったし、私にはどうにも、これほど豊かかつ複雑な時代に生きてなお、そこに関心を寄せずに生きている人間が大半であるというこの現実が、どこか笑うべきものであるかのように思えない。ありえないことであるように思えてならない。
 もっといえば、私自身が、数々の幸運な出来事がなかった場合、他の日本人たちと同じように、宗教に対してほとんど敬意を払わず、払っていたとしても「宗教は、今まで人の役に立ってきたし、これからも多分役立つよねぇ」などという、原始人に毛が生えた程度の宗教観で止まっていたと予想されること自体も、どこか喜劇じみていて、笑ってしまう。
 現代人にとって宗教は、しょせん「文化」でしかないのだ。そのようにしか見られないように、育ってしまった。宗教というものが、歴史そのものである可能性などほとんど考えもしない。しかし、現実は、私たちがどのように物事を認識しているかに問わず、ただそこに、その複雑性を持って存在している。

 それは一言で語られるようなものではないし、語られるべきものでもない。そして宗教は、あらゆる時代の人間が意識せずにいられなかったものであり、宗教によって、思考は訓練されてきたのだ。

 たったひとりの、全てを見通し、全てを断ずる神が存在する。そして私たちは、神のことを一切理解できない。理解できないように作られており、私たちができることは、ただ信じることだけ。祈ることだけ。
 そのようなものを、ことあるごとに想定して生きるということがどういうことなのか、日本人はあまりに想像できていない。
 「すべてを見通す」ということが、私たちの内心、つまり汚れ切った欲望や思い付き、衝動さえも見通し、そこから逃れたり、隠れたり、どうにかしてその監視から脱出することができないような、極度の状態を意味するということを、ほとんどの日本人は少しも理解していないし、理解できないであろう。
 一神教の厳しさ、本質はそこにある。
「私たちは、神を欺くことができない。神は、私たちが忘れてしまった過去の自分のことさえ全て知っている」
 その意識がどれほど人の精神を明敏にし、深くさせ、同時に混乱させたか、日本人はその点に関してはどうしようもなく想像力に欠けている。
 「閻魔大王の浄玻璃鏡」ですら「行動」に重きが置かれていて、その人間が「何を思ったか」「何を考えたか」には焦点が当てられていない。つまり、実際に悪行が為されていなければ、日本人は無意識的に「私には罪がない」と考えてしまうのである。考えずにいられないのである。そしてそこに、哲学的なセンスのなさを、私は感じずにいられない。精神の暗さを見ずにいられない。
 私たち日本人は私たちの肉体や行動ではなく、精神そのものを被告人席に座らせることに慣れていない。(そしてこの点は、皮肉なことにかつて科学の先頭を走っていたイギリス人たちにも共通している。彼らは、自分の思い付きそのものをとらえて、それに尋問をかけるということをあまりやりたがらない。しかし少なくとも「そのようなことを思いつきすらしない日本人」よりはマシであった)
 日本人は結局のところ、実際に起こったことや、その因果でものを見ることばかりしてきており「起こっていないが、起こりえたこと」に対しての感覚が、一神教を信じる地域で生まれ育った人よりもはるかに弱いのだ。
 (ただ『煩悩』という言葉あるように、欲望や、雑多な思念に対する敵意のようなものはなぜか育っている。日本人はある意味『考えること』に目を向けるのではなく『考えないこと』に目を向けてきたし、今でもそのような傾向が強い。現実主義的なのだろう)

 ただここで少し日本人として、日本人を擁護しておこう。これまで語ったような傾向は日本人に限った話ではないし、しかも近代化以降は、少しずつだが、一神教的な考え方が広まり、自分の精神自体に問や疑問を投げつけることのできる人間が増えてきたように感じる。グローバリズムの影響もあるだろうし、インターネットの影響もあると思う。
 私が語っているのはあくまで「ここまで」のことであり「これから」のことではない。そして私は、比較対象であるべき「現代の一神教の勢力圏の人々」がどのような感覚で生きているかをまず知らない。本当に日本人が、彼らと比べて一神教的な思考方法が育っていないか、本当のところ、私は確信していない。キリスト教の影響力は確実に落ちているし、ユダヤ教も……いやこれは語るのをよそう。私はユダヤ教に対しては好意的だが、現代のユダヤ教徒に対しては、あまりいい印象を持っていない。あまりどころかじゃない。かなり、悪い印象を持っている。持たざるを得ない部分がある。だがそれが偏見である可能性が否めない以上、私は何も言わないこととする。

 イスラム教は例外的に力を強めている一神教で、これは元来内的生活を優先する色の濃い宗教だ。実のところ……一神教の中で明るい未来があると考えられるのは(人類の歴史的な意味で)イスラム教であると、私は思っている。イスラム教は時代の流れ自体によく合致している。私は個人的にこの宗教に対しては非常に好意的だが、同時に、(これはIFなのだが)この宗教が独自に科学を発展させることはかなり難しいことだったのではないだろうか、と私には思える。あまりに平和的、自己充足的だったからだ。戦争的発展よりも、停滞的平和、融和を望む宗教だからだ。世界的目的を目指すのではなく、個人的目的、個人的平和を優先する宗教だからだ。イスラム教は、精神に対してあまりに優しすぎる。


 かなり話が脇道にそれたが、私が言いたいのは、こういうことである。私たち日本人が思っている以上に、一神教の思想も歴史も深く、複雑であり、優れたものであるということなのだ。
 そして一神教を少しでも理解したいと欲するならば、必ず、一度は神を真剣に信じようとしなくてはならない。信じないにしても、それが存在するという前提を、己に課さなくてはならない。
 つまりこの「日本という国家が存在する」ということを私たちは承認し、その中で生きるのと同じように、「すべてを見通す一者」が存在することを、私たちは承認しなくてはならない。その後それを破棄することが、どれだけ悲惨かつ苦痛であるか分からない人間に、哲学の本質は掴みようがない。
 信仰を捨てる、信仰を疑う、信仰を明らかにするということが、どれだけの覚悟とおぞましさを内に秘めているか、それがどれだけ必然的であったことか、それが理解できないならば、哲学の歴史はほとんど理解できないものだと私は思う。

 哲学も宗教も、真剣なものであった。命をかけたものであった。今やそういう時代ではないが、しかし、私たちは真剣に歴史を学び、真剣に生きることを必要とする。私たちは、ものを真剣に信じるということを、学ばなくてはならない。
 神を真剣に信じることができない人間には、神を真剣に「信じない」ということもできない。

 哲学は、一種の毒だ。だが、毒でしか癒せない病気というものもあり、現代は、人を病気にさせることにかけては他の時代よりもはるかに優れている。そう、殺さず、迷わせ、悩ませることにかけては、優れているとしか言いようがない時代なのだ……
 
 苦しみを癒すには、別の苦しみを自ら選び取るしかないのだ。
 日本人は「苦行僧」というものを知っている。だからそれについては、容易に理解できるだろうと私には思える。
 日本はこれまで哲学をやる土壌がほとんどなかったが、しかし苦行僧になることのできないこの時代、哲学は確かに必要とされ、そしてその土壌も十分すぎるほど育ちつつある。

 おそらくではあるが、日本の未来は明るい。人類の未来は、どうしようもなく明るい。世界は改善されていく。私たちがそれを望もうとが、望むまいが。
 少なくとも、私たちが「世界はダメになってしまうかもしれない」ということを真剣に考えらえるようになっているという事実は、私たちの進歩の証しだ。その方向性が誤っていたとしても「どうにかしよう」と実際に考えることができている時点で、やはり時代は進歩しているのだ。

 別の言い方をしよう。私の親族にはキリスト教徒は一切いない。それでも私は、私が「一神教というものをほぼ理解できない民族(あるいは国家)の一員として生まれた」という自覚を持つことができている。つまり「それが可能な時代」ということなのだ。
 私のような若者が「可能である」という事実自体が、この時代、この地域の高さを示しているのだ。
 私が「生まれうる」「育ちうる」ということ自体が、未来の明るさを示しているのだ。

 劣った人は、よくこのように推論する。「私の属している集団は優れている。ゆえに、私は優れている」と。具体的な例を出せば、こうである。「貴族というものを生まれつき優れたものである。ゆえに、貴族である私は優れている」「日本人というものは、他のアジア人よりも優れた民族である。ゆえに、日本人である私は優れている」
 気分の悪い偏見だ。

 それに対して私は、このように推論しよう。
「私という人間は優れている。ゆえに、私の属しているこの時代、この地域、この環境は優れたものであると考えなくてはならない」と。
 そしてこの考え方は、私のこの「私は優れている」という感覚が、あくまで私ひとりに存するわけではないことを示す。
 人を作るのは、その人の気質や生まれ持った才能だけでなく、その人の育った環境によるところが多い。私は恵まれた環境で育ち、この時代の中で、陶冶された。そしてそれは、まず間違いなく、私だけに言えることではない。そして、私のような環境に産まれ、育つ人間が増えていくことを、私は予感している。予感ではない。確信している。


 私は時代の高さを日々感じている。世界中の知恵の結晶たる名著が、質のいい日本語で読むことができる。誰よりもその分野において慎重な専門家が膨大な時間と労力をかけて訳した本を、ほんの少しの手間と時間とお金で読むことができる。
 外国語に関する基本的な知識がなくても、自分の意思で学ぶことができる。先人たちの優れた精神に、触れることができる。
 世界の未来は明るい。私の未来が明るいかどうかは分からないし、私は私自身のことを考えると憂鬱で仕方なくなるが、世界のことを考えると、少し気分が改善する。
 私に与えられた知的な財産にも、世界全体で共有されていく美しい財産にも、私は最大限の感謝を捧げたい。そしてそれが、この先も万人に与えられていくことを私は切に願うし、そうなることを確信してもいる。
 私は無力だが、私と同じことを考えている人が無力なわけでもないし、世界は残酷なほどひとりの人間の意志では動かないからこそ、そのような絶望があるからこそ、私の希望は確信となり、喜びは、約束された幸福となる。世界は、ひとりでに動いている。私は何かに導かれている。そしてその先にあるのは、私にとって、想像もつかないような喜ぶべき世界。
 同時代人たちの戯言も、どうしようもない馬鹿な言い分も、未来の美しさによってすべて帳消しになる。私は、それを容易に信じることができる。世界は素晴らしい! 世界は希望に満ちている!

 私は、楽観的なのは私だけでいいと思っている。いや、私自身ですら、この先に悲観的になる必要があるならば、悲観的にならなくてはならないと思っている。もし私が、何かの役目が与えられたその時には、私は真剣に、その仕事に集中するために「その仕事をしなくては、人類の未来は暗くなってしまうかもしれない」と考えることだろうと思う。
 だが今は、自由だ。私は、何の義務も課せられていない。課せられることがなかった! 悲しいほどに、私は役立たずであり、誰からも求められなかった。それだけが事実だから、私はその事実を受け入れ、喜び、意味を見出す。つまり、私は、悲観的にならなくてもいいのだ! 人類の未来が明るいことを、無邪気に、無根拠に、信じて喜んでいいのだ! なぜなら、私には現在、何の力もないから! 私は、この世界を改善する方法が分からないから!


 気分がいいので、ここで思考を中断する。

 お付き合いどうもありがとうございました。今日も私は元気です!

(今日は疲れたので、推敲せずに投稿しちゃいます。私、あまり向いていないことをするの、やめます。後で自分で読み返したときに編集することにします。何というか、自分の書いたものが『まだ未完成であり、完成させなくてはならないもの』として残しておくのが、気持ち悪いんです。そして『完成させるために、やりたくないけど時間と労力をかけること』が私は嫌いなんです。雑なまま完成ということにして、あとで気が向いたときに、その質を高めるという方が、楽なんです。ここまできっと誤字脱字、文法上の誤りが多数あったと思いますが、そんなもんだと許してください。私、プロじゃないし、プロを目指していないので)

 ごめん。嘘ついた。ちょっと考え足りない。頭がまだ思索に飢えている。

 というか、ここで終わらせるのがなんだか気分悪い。また後で追記してから投稿することにする。っぴー!


 はい。読み直して、気づいた誤りを(数えてなかったから正確には分からないけど)五個から十個くらい修正しました。私、めっちゃ書き損じ多いの。言いたいことは決まってるんだけど、それがちゃんと文法的な規則に従っていないというか、そもそも文章が私の思考に追い付いていないことが多々あるというか。
 私文章書く時って、先に「思考」があって、それを「言語化」してる感じなんだよね。それで、言語化されたものがさらに思考を誘発して、みたいな? だから、時々その「思考→言語化」がちゃんと形になってなかったり、言葉選びがおかしかったりするんだ。思考自体ははっきりしているというか、何を書きたいかははっきりしているんだけど、書く速度が基本的に頭の回転に追いついてないから、ちゃんと書ききる前に次の文章を書き始めちゃってるんだろうね。まぁまぁまぁ、多少間違ってても伝わるだろうから気にしないようにしよう。

 あ、でも、誤字脱字のせいで「ん? いったい何を言っているんだ?」となるのだけは避けたい。ときどき私、こういう文章書いているからね。
「ときどき私、こういう文章書いたえるいかね」
 こういう単純なタイプミス? この場合ですら、意味が通じなくなる可能性が生じてきちゃうし、そういう風な推測を読み手にさせてしまうのは、あまりに不本意というか、できるだけ避けたいとは思ってる。

 だが、私は私を優先する。だから、少しくらいそういう部分があっても、まぁ、許してくれ!

 私は自分の文章を読み返すことが多くて、そのときに「ん?」と思う個所があったら必ず直すようにしているから、昔書いたものほど誤字脱字は少ないと思う。文法上の誤りも、単語の意味の取り違いも、最近書かれたものの方が多い傾向にあると思う。それにしても後から直せるっていうのはいいよね。まぁ読み手からすると、そう何度も読むものでもないから「あーあ。またこいつ誤字だらけの記事あげてるよぉ!」ってなっちゃうんだろうけど、もういい。それはもう仕方ない。
 私の文章が雑なのは今に始まったことじゃないし、私はそれを改善してから投稿しようという気は全くない。書いて書いて書いて書いて、あとで時々見返して、直す。私はもうそれでいく。そう決めた。その方が楽で、楽しいのだ。
 私は誰かの気晴らしのために文章を書いているわけではない。私自身が書きたいのと、私自身がそれを人の目に触れる場所に置いておきたくてそうしているのだ。

 今日もぐっすりよく眠れそうだ。頭の体操終わり!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?