同情は嫌い。「生きて欲しい」も嫌い。

 私は「幸せだね」とか「生きていてくれてありがとう」とか言われると、気分が悪くなる。それを言っている人自身が、その人自身に対して言っているならいい。現在進行形で幸せを感じている人間が「幸せ~」と感じていることを口にしている分にはいい。

 でも「幸せだね」と同意を求められると、たとえその時私が実際に幸せと言えるような感情を味わっていたとしても、その瞬間にふっと冷めてしまう。幸せは黙って味わうものだろう? と言い返したくなるし、そう言い返したくなった時点で、気分が害されている。
 意味もなく気分を悪くする必要はないから、必然的にそういうことを言われそうな雰囲気の時は、心に壁を作って「ソウダネー」モードに入る。
 私は自分がすぐイライラする人間であることを知っているから、油断していない限りは、ちゃんと「ソウダネー」ができる。何を言われても「ソウダネー」と返すと決めている時は、相手が言ったことによって自分の感情が動かないから、楽だ。人間的に不誠実になってしまうのは、ちょっとアレだけどね。

 死について真剣に向き合い、実際にそこに突進したことがある人間としては、一度も死のうとしたことのない人間が他者に対して「死ぬな」と言うことに非常に強い嫌悪を感じる。
 その人の他者に対する「生きて欲しい」という感情はあまりにも弱く、くだらないものだ。それを「愛」だとかどうとか言っているのを見ると、吐き気がする。同情は愛じゃない。不安も心配も愛ではないし、人の感情を無視してその人の行動だけを動かそうとする行動は、「支配」や「命令」の方が近い。

 私は本気で苦しんでいる人間が命を絶ったなら「死ななくてもよかったのに」とか「未来があったのに」とは思わない。彼の意思や行動を否定することは、私にはどうにも不快で不快で仕方がない。その人のやったことを、一刻も早く忘れ、絶滅させようとする意志を、私は不愉快なものだと思う。
 自殺する人間は、いてもいい。自殺するほど追い込まれている人間を見ると私は悲しくなるが、しかし、自殺するほど追い込まれている人間を助け出すこともせず、ただ「死ぬな」とだけ言って、苦しい生を送ることを放ったらかしにしていい気分に浸るような人間を、私はどうしようもない「善人」だと思うし、強く深く軽蔑する。
 生きることが苦しくて、耐え難いなら、死んだっていい。人間にはいつでも死ぬ権利がある。自殺未遂を自分に対する殺人として犯罪に含むような国家もあるが、私はそのような国家自体が犯罪的な国家だと思う。少なくともその国家は、一個人に許された最後の逃げ道を塞ぐような、もっとも許しがたい犯罪的な権利の侵害を行っている。彼らは自分たちが、結果として人間に対して「もっと苦しめ! 苦しみ続けろ!」と言っていることを自覚しない。その人たち自身も、人を苦しめるということが犯罪であることを知っているのに、自分たちの「自殺をする人を見ることで生じる苦しみ」を軽減したいがために、すでに世界から傷つけられ苦しんでいる人間を、さらに容赦なく傷つけ、苦しめる。

 人生は喜びでもあるが、苦痛であるのも確かだ。そして、その釣り合いがとれているかどうかは、その人自身の生き方と能力と人格と環境と……様々な要因によって決まるもので、精神的に遠く離れた人間がどれだけ想像しても、その想像は的外れである可能性が常に存在する。

 私はできるだけ多くの人間が「たとえ自分の人生が苦痛でしかなかったとしても、その苦痛を人生が与えてくれた恩恵として受け取り、感謝し、その中で精一杯生きることを欲しよう」と決心してほしいが、他でもない私自身がその境地にまで達することができていないし、それはあまりにも人間には厳し過ぎるものだ。
 あまりに人生が苦しいなら、死んだっていいのだ。私は自ら命を絶った人には、静かな祈りを捧げたい。
 あらゆる宗教が自殺を罪として定めている理由を、その死んだ人を特例として許してもらうために、その人が死後幸福であることを特別に祈ることを正当化するためにあるのだと、私は思いたい。
 自ら命を絶つことはあまりにも悲しいことなのだ。悲し過ぎることなのだ。だからこそ、その悲しみさえ、小さく感じるようになってしまうほど、生きながら死ぬほどの苦しみを感じている人を、私たちはもっと尊重しなくてはならないのだ。そういう感度の乏しい人間は、他者の苦しみを想像することができないことを自覚し、その苦しみや痛みを手の届かない……どうしようもない、ひとつの気高いものとして、同情することを拒絶し、その悲しみに対して敬意を抱かなくてはならないのだ。
 自ら命を絶つしかなくなるほど、精神的に深く深く追いつめられるということは、そこまで苦しみ抜くことができるということは、常人には手の届かない一種の高度な感情を知っているということなのだ。
 安易な同情などするべきでない。敬意を払って、彼がどんな選択をするにしても、その選択を尊重せねばならない。
 私たちがどんなことをやったって、現在進行形で苦しんでいる人の苦痛の対価としては十分ではない。だからこそ、私たちはその苦痛を冒涜してはならないのだ。他者の苦痛を軽んじてはならないのだ。
 理解できないものを尊重することができるほど優れた精神性を有していない人間は、理解できないものを軽んじることしかできない人間は、そもそも何も言うべきではない。黙って、いつものようにくだらない娯楽にでも興じているといい。私だって、その苦痛が本当のものか分からないときは、そうする。何も考えず、何も見なかったことにして、いつものように笑って過ごすことにする。勘違いだらけの同情をしてしまうくらいなら、知らないふりをしている方がいい。差し伸べたつもりの手が誰かを突き落としてしまうくらいなら、見ないふりをした方がいい。


 人間は、それぞれ別の目標をもって生きていいのであるし、誰もが同じ幸福、同じ苦痛を味わうべきというわけでもない。誰もがすでに与えられた自分固有の幸福を手放すつもりがないように、私たちは自分自身の苦痛をも、それをひとつの財産として扱わなくてはならない。
 財産として扱えるほど価値のある苦痛を感じたことのない人間に対しては、私は何も言わないし、きっとそういう人間は、この件に関して言えることは何もないであろう。

 価値のない喜びというのがあるのと同じように、価値のある悲しみというものもこの世には存在する。避けるべき悲しみしか知らない人間は、他者の悲しみを尊重しようとはつゆにも思わず、遠慮なく汚れた手をその悲しみの中に突っ込み、ぐちゃぐちゃにかき混ぜた後、知らぬふりをしてまた別の人間の悲しみのもとに去っていく。置いていかれた人間の悲しみはさらに大きく、しかも穢れて、当人を内側から蝕む。
 同情屋の同情は、どんな美しいものもすぐに台無しにしてしまう。

 美しい同情があるとすると、それは同情しない人間の同情だ。何事にも同情すべきでないと己に誓った人間が、その誓いを破って同情するときにだけ、同情には価値が生まれることだろう。その中には、彼自身の苦しみや愛情が必ず含まれているであろうから……

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