批判に対する批判、批判とはいったい何であるか

 私は常々思っていたのだが「批判」という言葉は「非難」という言葉と語感が似ている。
 だからか、「批判」と「非難」を区別せずに扱っている人が多いのを、よく見かける。

 「批判」という言葉にも複数の意義があり、一口に「これが批判だ」と言うことはできないけれど、ただ感情的に「お前は間違っている」と指摘するのを「批判」と呼んで、他の正当な批判と同じように取り扱うのは、避けたほうがいいと思う。

 「批判」をいい意味で使うのが難しいなら、「評価する」とか「論ずる」とかその辺の言葉に言い直してもいいかもしれない。

 私は「批判」を、そのままの意味合いで使いたいけど、どうも「欠点を指摘する」という意味で捉えている人が多すぎて、私はこの言葉をうまく使えない。

 あくまで公平な目でいい部分と悪い部分を両方とも明らかにし、判断を下すというのが私にとっての「批判」なのだが、多くの人にとってそうでないなら、そもそもその言葉は使わない方がいいというわけである。

 ここで小話に、カントの「純粋理性批判」とかの話をちょっとしよう。あれは別に「純粋理性なんてないぞ!」っていうことを言ってるわけじゃなくて「純粋理性とは何か考えてみた」みたいな意味合い。
 デカルトのせいで「純粋理性を過大評価する動き」みたいなものがあったから、それに対する「反対」ではあるけれど、あくまで「純粋理性」に対しては「批判」。つまり「正当に評価し判断を下す」ということ。
 「それは何か考えてみた」というのが「批判」という言葉の意味合いを示していると聞いたら、どこか奇異なものを覚える人もいるかもしれないが、しかし、そういう使われ方をしてきたのだということを忘れないでいてほしい。


 ともあれ、今回はある程度説明をしたので、そういう意味での「批判」のことを語っていきたい。


 批判というのは、まずとても難しい。というのもそれがしっかりした「批判」であるならば、なおさらその「批判文」に対する「批判」も想定せねばならない。「評価している自分」を評価する他者を、ある程度想定しなくてはならないのだ。
 当たり前の話ではあるが、他者の意見や行動を正当に批判するならば、自分自身もまた正当に批判される場に立たなくてはならない。それなりの覚悟と、責任感を持って行うのが誠実な人間の在り方だと、私は思う。

 それとは別に「批判的思考」というものもある。
 私はこれが出来ているとされている人にも、二つの段階があると思っている。

1.対象を、公平かつ客観的に評価し判断するという思考法

2.1の条件を満たしたうえで、自分自身の思考をまた別の誰かが同じように評価し判断しているということを前提に考える思考法

 つまり自分の考えを完全に見透かしている他者を想定し、その人間の「批判」を聞きながら考えるということである。「自分自身の批判」に対する「批判」を聞き入れながら、思考をするというやり方。

 これは普段、批判というものを深く考えていない人にはとても難しいことであると思うが、ここまで出来るようになると、偏見や独断に囚われることはかなり減ると思う。


 さて、もう一段階「批判的思考」に深く潜り込んでみよう。

 自分の行動に対する批判的思考について
 
A.自分がすでにやったことに対する「なぜそうしたのか?」という自己批判

B.自分が現在していることに対する「なぜそうしているのか?」という自己批判

C.自分が次にすることに対する「なぜそうするつもりなのか?」という自己批判

 これは先ほどの「2」の派生形なのであるが、少々危険なものである。他者に対する批判というのは、あくまで頭の中と言葉だけでのものであり、自分自身の行動には直接影響しない。
 悪い言い方をすれば、他者批判は全て「口だけ」である。(もちろん、それが役に立たないということではない。正当な批判というのは受け取り手や第三者にとっては基本的に有用である)

 対して、このような「自己自身について、評価し、判断すること」というのは、直接行動に結びつく。

 「A」は「反省」Bは「動機」Cは「行動理由」等と呼ぶこともできる。これらは本質的に自己批判である。

 人はほとんどの場合、自分の行動を批判しないし、その原因も理由も意識上にはない。それは能動的に「考えよう」としなければ、ふつう考えないことである。
 極度に自己批判的な人間はこれを日常的に行っているため、自分自身の行動に絶えず縛られる傾向にある。責任感の強い人間によく見られるものであり、うつ病の原因となることも多い。

 もうすでにこの段階に至っている人に対して、有用なアドバイスをするなら、こうだ。
「考える順番に気を付けろ」
 私たちのような人間に対して「考えるな」というのは逆効果である。余計考えるようになってしまう。重要なのは、危険な思考のパターンに陥らないよう気を付けること。因果を逆転させて考えたり、極端なYES、NOの二択に囚われたりすることが問題なのだ。

 先ほど説明したA、B、Cは、過去、現在、未来、に対応しているが、この順番に考えればいいというものではない。

 たとえば先に「かつて私はなぜあんなことをしたのか」と反省した後に、関連性の低い現在の行動について「今私がしていることに何の意味があるだろうか」などと考え始めたら、答えは出なくなってしまう。
 それに「今私がしていること」は、少したてば全て「すでに私がやったこと」に変わってしまうため、B→Aへの移行は早すぎて、認識の都合上、現実に追いつけなくて混乱することも多い。たとえば料理を作ってるときに「本当にこのやり方でよかったのだろうか」とか「別のものを作った方がよかったのではないか」などと考え始めても、すぐに出来上がってしまうため、結論して行動することができない。

 この場合、基本的に「C」から出発するのが無難であり、未来に基準に置く方が健康的に思考を進められる。
 それと、大前提として、自分の行動を変えられるのは現在だけであり、「B」に対して否定的な結論を下すなら、必ず行動しなくてはならない。できない場合は、無理にでも肯定したほうがいい。そうでないと、肉体と精神の間に意見の対立が起こり、無駄にエネルギーを消耗することになる。
 今自分がやっていることを「すべきでない」と判断しているのに、それを続けるというのは、とてつもなく体力を消耗するのだ。
 これに関しては、本当に気を付けたほうがいい。自己批判をする場合は、順番に気を付けたほうがいい。まずい順番で自己批判をすると、精神に深い傷を負う。実体験だからね、これ。本当に気を付けて。


 結論として、私は「無理に批判する」ことは勧めない。同時に「批判したいから批判する」というのも、勧めない。
 批判というのは、「その批判は何のためであるか」という「批判に対する批判」を乗り越えたうえで、行うべきであると私は思う。
 同様に「批判に対する批判」を受け入れたうえで批判するならば、私はそれを堂々と行っていいと思っている。
 「この批判には、しっかりとした理由がある」と考えるのならば、私はどんどん批判していけばいいと思っている。

 「自分が批判するのならば、相手の批判を冷静に受け取る準備を整えるべし」というのも忘れてはならない。
 自分が批判されたくないのならば、他者を批判するのはやめておいた方がいい。
 評価する者は、評価される。当然だ。

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