代わりに考えてもらおうとする人

 何か問題が起こったり、単純にやることがなかったり、考えて何か判断しなくてはいけないときに、誰かに代わりに考えてもらいたがる人間がいる。
 基本人任せで、何をやるにしても、人の顔色をうかがう。自分の行動を支持してくれる人がいないと、いつでも自分が間違っているのではないかと不安になる。
 自分が誰かから何かを言われたときも、すぐにその内容を友達に話したり、ネットで調べたりして、安心しようとする。自分の頭を使って、自分なりに解釈したり、自分の心と向き合ったりすることがない。

 その人は私たちがそうするように「ひとりで考えて行き詰まったから誰かに相談する」のではなく「ひとりで考えるのが怖いから誰かに話しかける」のである。その人の特徴は、自分のことを話すときに、相手が自分のことを悪く思わないように気を配って話すことにある。厳しい意見を言われないように、どこか他人事というか、どうでもいいことかのように、自分の体験したことを人に話す。相談という体を取っているのに、その問題について前向きに取り組む気が一切ないのである。
 そしてこういう人は、人から相談されたとき、一般論に逃げるか、人から聞いた話をそのまま言う、という特徴もある。自分自身の意見、というものを持っていないのである。あるいは、それを持っていても、人にそれを主張するだけの勇気がないのである。


 そういうタイプとは別に、ただ時間をかけて考える、ということができない人間もいる。彼らにとって、直感的に分かること以外は全て「難しい」のである。

 私たち考えることに慣れている人間にとって「難しい」というのは「これはどういうことだろう」と五分十分、落ち着いて考えてみても、さっぱり答えが出ない問題のことであるが、彼らにとって「難しい」とは「五秒では分からない」を意味する。
 そして私たちは「これは難しいことだ」と言われるとわくわくするし、試しにやってみようと思うが、彼らは「難しい」と言われると「自分にはできないことだ」と反射的に決めつける傾向にある。

 何もかもが人任せであり、すぐにできることや、やらなければならないこと以外にはやる気を出せないのだ。

 そういう人はすごく騙されやすくて、扱いやすい。優しい人が好きで、いつも誰かにぶら下がろうとする。かわいらしい外見をしていることも多い。でも致命的に話が面白くなくて、誰かを楽しませようという奉仕の精神もないから、異性からモテることはあっても、同性の友人に恵まれることはあまりない。たいてい、色々と悪口を言われたり嫌がらせをされたりしてひどい目に遭うか、似たようなタイプ同士でつるむことによって、謎の「幸せ空間」を形成する。


 この時代「自分の頭で考えることが大事」と言われることが多いのは、単純に昔から、人より秀でた人や、目立った活躍をする人は、他の人が考えないことを自分の頭で考えだし、その通りに動いてきたからだと思われる。
 ただ厄介なことに、自分の頭で考えればそれだけでうまく行くわけではなく、それはひとつの条件に過ぎない。自分の頭でものを考えるのは、何かに責任をもって取り組むうえでのスタートラインでしかなく、元々考える習慣のなかった人が、急に「自分の頭で考えられるようになろう」と思い立って、努力をしても、すぐ結果が出ることはまずない。当たり前のことだが、幼少期からずっとひとりきりでじっと何時間も同じことについて悩むことが趣味だった人間というのは、この時代において数えきれないほどいるし、優れた知性というのはそういう日常的な、努力ということができないほどの膨大な積み重ねの結果生じてくるものだから、見様見真似で人の思考を追いかけて、自分の思考を鍛えようとしたって、手遅れ、ということはよくあると思う。

 だが、どんな人でも謙虚になることや、立ち止まるということは、今すぐにでも実践できることだと思う。直感的に「分かった」と思ったときに「いや、それは勘違いなのではないか?」と立ち止まること。「こうしよう!」と決めた時に「本当にそれでいいのか?」と疑ってみること。
 それは、人と会話をするとき、相手の話すことに疑問を抱き、その疑問を確かめる、という技術でもある。

「どうしてそう思うの?」
 ろくに物事を考えていない人間は、小さな子供でもできそうなこの質問が、まずできない。立派なことを立派な態度で言う人間に対して「どうして?」という疑問を抱くことすら、まずできない。彼らは直感的、感情的な「肯定、否定」のどちらかしか選べず「もっとよく考えてみよう」という態度を取ることができないのだ。
 だが、それは意識さえすれば考える習慣がなくてもできるようになることだし、それを自分自身に対してできるようになれば、あらゆる物事に対してそのような「どうして?」を重ねることができるようになれば、着実に自分の頭で考えられるようになっていくし、それによって人から一目置かれるようなこともあると思う。

 分かった気にならないこと。知りたいと思うこと。能動的に、反応を見ようと思うこと。

 そういうことが、結果として自分自身で考え、判断する、という力を育む。


 これに関しては同じことを言っている人も多いと思うが、誰かに何かを教えるとき、先に相手に答えさせて「どうして?」と質問をすることで、相手に相手自身の考えをまとめさせるのは、いい方法だと思う。
 相手が間違っている時、相手の誤りをただ指摘するだけでは、異なる意見を持つ自分と相手、という対立構造ができてしまうだけだ。そうではなく、友好的に相手の立場に立って、相手が自分で自分の誤りに気付く手助けをする方が、ずっとうまくいくと私は思う。
 「正してやろう」とか「正しい方向に導こう」ではなく「相手が自分で何が正しいか決められるくらい、賢くなってもらおう」とする方が、結果としてうまく行くことが多いと私は思っている。
 いや、私たちは「正しさ」なんてこれっぽっちも知らないのだから、本当に賢くならなくちゃいけないのはいつだって私たち自身なのではなかろうか。

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