noteをはじめて早二カ月 思っていることとちょっとした分析

 noteをはじめて早二カ月。もっとすぐにやめることになるような気がしていたし、実際に「二度とやるか!」という気持ちにも何度かなった。

 でも私はなんだかんだいってほぼ毎日投稿している。別に毎日投稿しようという目標を立てているわけでもなければ、そうするだけの理由もない。
 私のこれには、明確な理由も目的も一切ない。ただ自分の気の赴くままに、自分の気持ちを吐き散らかしているだけ。

 ダッシュボードで見ることのできる閲覧数や「スキ」の数は、現実味を帯びていない。私はその数字が何を意味しているのかよく分からないし、それに一喜一憂しようにも、疑いの方が強く顔を出すので、首を振ってそっとページを閉じるだけだ。
 コメントは本当にありがたかった。私はやっぱり数字ではなく、私に向けられた誰かの具体的な感情じゃなければ、何も分からないのだと、はっきりとそう思った。
 数字ではなくて、生きている人の言葉がそこにあることで、私は深く安心した。それと同時に、私の書いたものが人に少ないながらも影響を与えているという事実に、恐れを感じた。
 それまで感じていなかった、現実的な不安を感じるようになった。罪に対する恐れも感じる。私の書いたものによって、誰かが決定的に損なわれてしまうんじゃないかという恐れ。このまま自由に私が文章を書き続けることによって、誰かが不幸になるんじゃないかという恐れ。
 いや、正直に言おう。私は私の知らない人が不幸になったって、どうでもいいと思ってる。でも、その不幸になった人が「お前のせいだ」と私を指さすとしたら、私はそれについて深く悩みこんでしまう。罪悪感の正体とはそういうものであり、優しさではなく臆病さに起源を持つ。
 結局私も、傷つきたくないのだ。違う。傷つきたくない自分がいるということを、私は認めているだけだ。

 だって私はそれでも、勇気をもって、これを続けているから。私には、人を傷つけて、その結果として自分が傷つくだけの覚悟がある。
 それで殺されたって、文句は言えない。それでもいい。それでも、嘘だらけの作り笑いを浮かべたまま死ぬよりかはずっといい。

 ともあれ、私の文章は人の共感を得たり、得なかったりするのは確からしい。それについて無用な分析をしてしまうのは悪癖かもしれないけれど、悪癖でも、それが私である以上、持ち場を与えておきたいと思う。

 私の書いたもので、一番閲覧数も、「スキ」の数も多いのはあの『性欲ありきのプラトニックラブ』という掌編小説だ。


 あらすじとしては、性欲が強い女子高生が、性欲をもてあましながらも彼氏との肉体関係を我慢することに喜びを覚えるという話だ。
 私はアレをどうやって書いたのかよくわからないし、何というか、評価しがたい。読むたびに、その日の気分によって、「いいじゃん」と思うときもあれば「気持ちわる」と思うときもある。酷い時には「これに『スキ』をつけるやつは、発情した下品な男共なんじゃないか」なんて、考えてしまったりもする。本当に申し訳のないことだ。そういう人が滅多にいないのは知っているし、そういう人であったとしても、私は人のことが言えない。
 そもそも性欲は悪いものじゃない。私って、めんどくさい奴だと思う。

 そして他に「スキ」の数が多いのは、「受容」の話。世の中で「悪い」と言われている性格や、在り方を、全力で肯定した話。
『自分を隠すのは悪い事ではない』
『役立たずでもいい』
『自分を責めすぎないで』などだ。

 それとは別に、ただただ憂鬱な気分で書いた物語や日記、随筆等もそれなりに読んでくれている人がいる。これに関してはきっと、単純な「共感」というやつなのだと思う。同じように思っている人が一定数いるということなのだろう。

 日記や単純な考察、備忘録、哲学の話は基本的にほとんど反応がない。私はこれがすごく楽しいと思っているし、自分で読んでいても面白いと思うのだが、同じように感じる人は少ないらしい。
 あと抽象的な話や、詩についても同様だ。やはり人は、分かりやすいものを好むのだろう。難解であったり、奇妙であったりすると、判断しなくなる。あるいは、くだらなく思えてくる。
 私はそれに神秘的なものを感じるし、美しいと感じることさえあるけれど、これは私特有の感じ方なのかもしれない。
 もし評価されるなら、こちらで評価されたいと思ってはいるが、きっとそうなる未来はないのだろう。それならそれで、構わない。
(ただ、単純な興味の問題なのかもしれない。新しくて、話題になっていることが好きなので、古い話や、新しすぎる話には、集中できないのかもしれない。『エーリッヒフロムの自由からの逃走を読んで』はかなり適当にやったのに反応があったから、文章の内容ではなく、何について語っているかが重要なのかもしれない)


(分からないのは、恋愛や性についての話題のウケは、何か法則性があるようには思えないことだ。誰もが言っているようなありふれた話は聞き飽きているという可能性はある。尖っている方が、ウケるのかもしれない。尖らしているつもりは一切ないので、私の目線では「なんでこれがウケて、こっちがウケないんだろう?」となるわけだ)
(別の視点から見れば、ありふれた意見や常識的な話は、どこででも聞けるので、その人のためにならない。つまり読む人は、読むことによって、何かを得たいのだから、自分の知らない話を聞きたいわけだ。そうなると、当たり前のことを言っているだけの話を好意的に感じることはない、ということなのだろう。それならそれで納得だ)


 さてここまで真面目に考察してみたが、正直、どうでもいいと思ってる。私は人の役に立たない記事をこの先も量産していくし、それでいいと思っている。正直「人の役に立とう!」と思って書いたものより、私がその時感じたことを楽し気に書いたものの方が、実際に人の役に立っていることが多いように思うので、力を抜いてありのままの私でいようと思っている。
 自分が楽しいと思うことをやるし、自分が読みたいと思うものを書く。それで何と言われようと、それはその人の感性の問題であって、私のやり方の問題ではない。
 だって私は、人からの評価が欲しくてやっているわけじゃないんだから。
「の割には、人からの反応についてずいぶん真剣に考えていたよね?」
 それは性分だもん。私の意志の問題じゃない。
 私は自分に関係する事柄やデータは、一通り考察せずにいられない性格だから、それだけなんだもん。
 ま、欲求があるのは認めるけどね!

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