もし皆が○○になったら

 分かりやすい実例を出そう。
A「ニートで何がいけないんですか? 僕ひとりが働いたとしても、社会は何ひとつ変わりませんが」
B「もしすべての国民が君と同じように考えたら、社会は成り立たなくなってしまう。だから、君は働かなくてはならない」

 まぁよく見かける理屈だ。先に私なりにBを擁護する見解を述べよう。

 この発言は、ひとつ述べるべき部分が述べられていないから、論理が飛躍しているような印象を与える。このように言いなおすなら、少々論理的な強度は高まる。
B「もしすべての国民が君と同じように考え、ニートになったら、社会は成り立たなくなってしまう。この社会は、小さな力の集合体によって支えられている。君はその小さな力の集合体の一部になりうる存在である。君はその小さな力の集合体からの恩恵を受けてここまで育ってきたのだから、それを維持するのに役立つ労働という義務を果たさなくてはならない」

 さぁ一気に手ごわくなってまいりました。働かなければならない論! あえて自分から敵を強くしていくスタイルゥ! フゥ!


 まず最初に、とんちみたいにして言い負かす作戦やってみるね。これは正しさを主張してるんじゃなくて、第三者の同意を勝ち取るための理屈だから……うん。まぁ、民主主義的正義のための、言論ね? 先にそう言っとくね。

C「あなたは先ほど『もしすべての国民が君と同じように考え、ニートになったら』と述べましたが、それはおそらくあなた自身についても言えることではないでしょうか。つまり、私が今からあなたに、こう述べるとしましょう。『もしすべての国民があなたと同じように考え、あなたと同じ職業、社会的地位についたら、社会は成り立つのでしょうか?』と。あなたはどう答えますか? おそらくはこう答えることでしょう。『もしすべての人間が私と同じような考えになったとしても、その場その場で必要な仕事を分担してこなすので、社会は成り立つ』と。当然これは、ニートであるA君にも同じことが言えます。重要なのはその『必要な仕事』という点です。A君を含めたほとんどのニートは、働かなくても生きていける環境にあるからこそ、ニートのままでいます。つまり、彼の前には『必要な仕事』がないのです。
 社会が、彼なしで成り立っている、という現実にあって、はじめて彼のような考え、判断が産まれてきます。もし社会が実際に成り立たなくなり、A君の生活が危うくなった場合、おそらく彼は働き始めることでしょう。その時にはその時の社会が成り立ちます。つまり、あなたは最初の前提である『もしすべての国民が君と同じように考え、ニートになったら、社会は成り立たなくなってしまう』は正しくありません。もしあなたがこれを否定するために『そもそも全ての国民が同じ考えを持つことなどありえない』と言った場合においても、それは元々あなたの意見なのですから、単なる自己否定に行きつきます。どうでしょう?」

 あー……こういう反論なぁ。私のスタイルじゃないんだけど、好きな人は多いと思うねん。相手は基本黙るしかないし、第三者に対する説得力もある。相手の意見の最初の部分に噛みつくことによって、それ以降の話も全部無意味なものにしてしまう。
 私こういう反論の仕方、議論を台無しにしてしまうから、あんまり好きじゃないんだ。「勝った感」しか産み出さないし、恨みも買うし、あんまりいいことない。
 元々あいまいだった論点を、自分の都合に合わせて特定の箇所に狭め、相手が同意せざるを得ない命題を導き出し、そこから自己矛盾に誘導する。うーん。ひどい。ソフィストって感じ。


 そもそもBの理屈のベースって「国家並びに社会のために働きなさい」にあるから……実のところ、この議論は政治の問題なんだよね。実はニートの問題って、国家主義的な問題なんだよ。
 第一として「個人のための国家」が正しいなら、国家の恩恵を一方的に享受して、法律の許す限り好き勝手に生きることは、倫理的には何の問題もないし、それどころか、むしろ推奨されるべきことなんだよね。でも逆に「国家のための個人」が正しいなら、全ての個人は国家の繁栄のために尽くさなくちゃいけなくて、それを否定するような生き方は、全部倫理的に「問題アリ」になる。
 んでこの日本社会の現状って、その中間なのであって、Bの意見も本質的にはそこにある。
「この高度な社会は、各個人の努力の積み重ねによって成り立っている。それを怠ると、簡単に社会は衰退してしまうし、それによって損を被るのは、君も含めた私たち全員である。私たちは、現状維持あるいは発展を望むのであって衰退ではないのだから、君もそのために努力してほしい」
 Bの意見の本質は、このような要請なのである。
 根幹にあるのは「働いて、役に立ってほしい」であり、「働かなければならない」という発言は、高圧的な人物によくある「お願いを命令にしてしまう性質」の結果でしかない。
 そしてその「働いて、役に立ってほしい」という目的は、この自由主義社会において権力によって押し付けることができないので、相手を説得するという方法に頼らざるを得ない。ゆえに、最初の「皆が働かなくなったら」という理屈は、説得のために持ち出された都合のいい、中身のない理屈なのである。説得したいだけなのである。

 だから、この議論を建設的な方向で進めるのならば「言論以外の方法で、働く人を増やす方法はないか」あるいは「労働によらない社会の発展の方法はないか」という風に考えを進めていく方がいい。働かない人に「働かなくてはならない」というプレッシャーをかけて意味のある時代は、もう終わりつつあるし、実際都合上、「働くこと」自体には一切価値はなく、本質もなく、働くことによって生み出される「もの」や「力」が社会を成り立たせているのだから(もちろん、その「もの」や「力」は、これまではほとんど労働によって生み出されたものであった。でもそれが大きく変化してきているのは誰もが肌で感じていることだろう)それをどのようにして産み出し、使っていくかというのを真剣に考えていかなくてはならない。


 なんかどうでもよくなってきた。あとさ……実は国家の立場からすると、失業者、失職者が多いのはたいへんな問題なんだけど、ニートって別に、それほど損じゃないんだよね。国家が労働者の生活を管理してるなら話は別なんだけど、実際には企業が労働者を管理してて、その企業がどのように活動して、どのように国家に利益をもたらすかっていうのと、実際に個人がどれくらい働いているかっていうのは、直接的な相関関係はないんだ。企業の収益が増えれば国家の税収が増えるのは事実なんだけど……そもそも企業がいらない人材を雇用することによってヒトモノカネの動きを無理やり新しく生み出したとしても、それによって生み出されたものに価値がなかったり、あるいは企業間の競争が激化することによってヒトモノカネの価値が一律で下がったりしてしまったら、国家としては超困ることになるんだよね。
 さっき言った、失業者、失職者が多いと何が問題になるかっていうと、政治の不安定と治安の悪化に直結するからなんだ。でも、裕福なニートが増える分には、政治は不安定にならないどころか、時間のある人間がゆっくり政治について考え、票を入れることができるので、民主主義の危うさに対するブレーキとしての機能にもなるし、現状を維持したいと考える人間の絶対数が増えるので、保守的な政治を維持しやすい。政府にとって(頭がいい)ニートが多いのは結構好都合。
 ただ長い目で見ると結構きついかもしれない。高齢化と少子化がまずいんだよ。老人の面倒を見る人が足りなくなって、そこに人員を割くために、文明や制度の維持に必要な人材が不足して、社会としての機能がどんどん縮小していくことが問題なんだよ。で、その問題はマジで何というか……労働者の努力の問題ではない。労働者人口の問題でもない。社会自体の必然的な構造の欠陥に問題があって……まぁ、ゆっくり変えていくんだろうなぁと私は思ってるけど、変に焦ってまずい手を打つと、社会って簡単にめちゃくちゃになるから、それが不安かなぁ。

 その、さ。労働時間増やしたり、女性が働くことを奨励すると、当たり前だけど、子供を産むタイミングが難しくなるからまず間違いなく少子化が進む。みんな見逃してるけど、少子化の根本的な要因って子供を産まない人が増えていることだけじゃなくて、子供を産みたいし産んでやるぜって思ってる人が、二人か三人くらいしか子供を産まないのも大きな要因なんだよ。五人とか六人とか子供産むような人が昔は結構いたらしいんだけど、最近だと全然見ないね。クラスの友達でも、兄弟多い人でも三人とか四人とか。祖父母の話聞いてると、兄弟多くて家がにぎやかなのは珍しくないことだったみたいなんだよねすごいね。
 人口が縮小していくこと自体は悪くないんだけど、御老齢の方々が生活のために動かない体を鞭打って働くところは見たくないし、そういう社会はちょっと、私は嫌だ。自分がそうなりたくないとかそういうなんじゃなくて、ただただ見苦しい。

 私、多分この先積極的に働くことはないと思うんだけど、働くってこと自体は何ひとつ悪いことではなくて、むしろ喜びだっていう感覚はよく分かるんだよね。自分の能力を生かして、自分の周りの人の役に立って、その対価としての生活の糧も貰える。その中に多少の競争があるのだって面白くていいだろうし、別に否定すべきものではないと思う。ただ何というか……なんか変なんだよね。違和感がある。今働いている人たちの心の中に「働かされている」という感覚があるからかもしれない。奴隷的になっている? 自分の意思で、生きるために働いているという実感がない? よく分からないけど、なんか気持ち悪いんだよね、特にこの時代の都会とか街とかって。田んぼとかがあるエリアまで行くと、マシだと思う。みんなのんびりしてるし、比較的のびのび働いてる。
 まぁ人が多すぎて、人の数に対して職の数が少ないのかなぁとは思う。そもそも社会自体は大きくなってるのに、それ自体が「維持」や「競争」以外の目的を持っていないっていう、その無意味さというか、発展性のなさみたいなものにも原因があるのかもしれない。

 ピラミッドとか古墳作るために働いてた人たちは楽しかっただろうなって、ふと思った。自分たちの仕事の結果がさ、何千何万年の時を超えて、想像もつかないほど多くの人々からの尊敬を勝ち取ると同時に、人類全体への未来永劫続くひとつの遺産、贈り物にもなるんだから、そんなのもう、胸がドキドキでしょ。

 めっちゃくちゃ話逸れたけど、ま、いいっしょ。
 なんか、大きな仕事っていいよなぁと、時々思うんだ。歴史に残るような仕事を手伝ってみたい、と思うのはきっと私だけじゃないと思うんだ。
(でもそういう欲望は簡単に馬鹿げた戦争とか革命に繋がっちゃうので気をつけましょーねー)

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