「自分のことだ」と勝手に思うこと。非実用的現実主義者。


 思わないよりはいいと思う。

「こういう人になってはいけません」
「こういうやつが嫌いだ」
 という話を聞くたびに、私は自分のことだと思う。いやもちろん、その書き手が私という人間を意識して書いた、なんてことは思わない。ただ……その言葉として、その感情として、「こういう人間」という類型に、自分が当てはまっている、と感じてしまうのだ。

 人はポジティブであいまいな像を自分に当てはめる傾向にある、という。たとえばあまり根拠のない心理テストや占いをほとんどの人が「当たっている」と思うみたいに。私もそれについては、例外に漏れない。
 だが他の人と違うことがあるとすると、私はネガティブな言葉から目を逸らさず、しかもポジティブな意見の時と同じように、強く「当たっている」と思ってしまうことだ。直感的に、自分自身が攻撃されたかのように感じる。捉えてしまう。

 はた迷惑なことだと、思う。もし私が書いた側なら「何勝手に勘違いして傷ついてんねん。こっちは君みたいな人を傷つけたくて書いたわけじゃないんやけど。え? もしかしてこっちが悪いの? メンドクサ」と思うことだろう。実際私は、私の文章を読んで傷つく人は、その人自身の問題であり、責任であると何度も書いてきたし、それをずっと強調してきた。私自身も、誰かの文章を読んで傷つく場合、それは私自身の自意識に問題があると考えているから、その人の配慮の足りなさを攻撃しようとは思わない。いやもちろん、愚かさや無知を攻撃しようと思うことはあるけれど。

 ものごとを抽象的に捉えることの得意な人間は、私と同じような傾向を持っていることが多いと思う。書き手が、具体的で個人的な体験から帰納的に推論して抽象的な結論を導き出したとしたら、それをそのままの流れで理解せず、その抽象化された結論の中に自分自身の体験や、生き方が含まれていないか、ほとんど自動的に重ね合わせようとしてしまうことだろう。(私の言っていることは難しいだろうか……いやだが、これ以外にどう表現すればいいのだろう?)

 私は「自意識過剰」という言葉があまり好きじゃない。自意識は大きくていいものだ。大きい自意識こそが、自分自身を頻繁に振り返ることのできる偉大な自意識なのであって、過剰である、つまり大き過ぎて問題であることなんて、ないのだ。
 自分についてあまり考えないことを美徳とする「常識」の中でしか「自意識過剰」なんて言葉は成立しない。まさに時代錯誤的だ。今世紀は「大自分時代」だろうが。
 自分事じゃないことを自分事のように捉えること。それは確かに自分自身を苦しめることだが、ただよく語られているように「自分自身を無意味に苦しめること」ではない。そこには、大きな意味がある。自意識は大きくていい。大きいほどいい。
 たくさんの後悔と苦しみ、悲しみ。自分らしさとは、そういうところからやってくる。結局のところ、自分が自分であるためには、いっけん意味のない苦しさを受け入れるしかないのだ。
 それで苦しめる人間はそれほど多くない。だからこそ、それに価値があるのだ。他の人間に理解されない痛みに、他の人間がどれだけ努力しても届かない痛みに、高潔さが宿るのだ。

 傷つくことができる、というのもひとつの能力だ。
「それは自分で選んだことじゃない」
 と思えるなら、幸運だ。それは自分の意思なんて貧弱で移り気なものに土台を持っているのではなく、自分の人生の根っこから生えてきたものなのだから、簡単には消えないし、揺らがない、価値のある「自分らしさ」だ。

 言葉は嘘だらけだ。でも、心の痛みだけはこの瞬間確かに「ある」と分かるものだ。それだけは、本当のことだと私には思える。そして、痛みがあるのなら、他の多くの目に見えないものが「ある」ということも分かる。
 もっとも現実を現実たらしめるものがあるとすると、私は痛みや苦しみであると思う。

 私は非実用的現実主義者だ。

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