哲学が好きな理由


 昔は小説が好きだった。小説を読むと、その小説に描かれていない部分の景色や、登場人物の深層心理みたいなものを、意図せず考える子供だったし、そういう夢の中にいるような思考が、気持ちよくて好きだったのだ。
 いつの間にか小説を読むのをやめていた。多分小説家になりたいっていう気持ちが湧いてきたせいで、難しい小説や、最近受賞した作品を読むようになって、純粋な気持ちで小説を楽しめなくなったからだと思う。
 「この作品から自分は何を得られるのだろうか?」「ここの文章は、語法的に誤りではないか?」などなど、無意味な思考がよぎるようになってしまったのだ。
 あと、友達と感想を語り合うことが楽しくて、読んでいるときに「どういう話をしよう?」と同時並行して考えてしまうのも、悪い癖だった。
 物語自体を楽しめず、それに付属する別の行動に楽しみを見出してしまったら、もはや物語を真剣に読む必要性すらなくなってしまう。そもそも必要性などと言っている時点で、歪んでいるのだ。歪んでしまったのだ。

 結果として、名作しか読まなくなった。売れている本や、流行の本に夢中になることができなくなった。
 名作しか読めないのは、多分そういう消極的な理由だと思う。名作は、私が何を思おうとその言葉の力強さや、作者自身の想いのようなもので、かつてのように私を楽しませてくれるものが多い。
 しかもそれがひとつの教養として機能するのだから(流行の作品は、十年も経てばその話をしても誰も分からなくなる。新しい作品を読み続けなくては、教養とは呼べない。ニュースと同じである。ただ名作は、十年経っても五十年経っても名作のままであり、教養であり続ける)私のひねくれた精神も、満足してくれる。

 で、そこまで来ると当然のように哲学書を読むようになる。当時の小説家が影響を受けた哲学者から入って、哲学自体に興味を持ち、時代順に読み進めていった。

 プラトン、アリストテレス、アウグスティヌス、トマスアクィナス、モンテーニュ、デカルト、パスカル、スピノザ、ライプニッツ、ルソー、ヴォルテール、カント、ヘーゲル、ショーペンハウアーなどなど

 正直、哲学って時代が進めば進むほど専門化しちゃって、面白みが減っていく。そういう点で、ニーチェはとてもいい仕事をしたと思う。あそこで、哲学は完全な死を免れたような気がする。ニーチェは超狭い分野である「論理学」とか「道徳哲学(カントのおっさん!)」とか「弁証法哲学(うるせーハゲ黙ってろ!)」とかにはほとんど影響を及ぼさず、心理学や社会学に強い影響を及ぼした。そうすることによって、意図してたか否かにせよ、哲学の範囲を広げ直した。
 それにね。ニーチェはね。ただただ面白いんだよ。感動するし、笑える。それでいて、考えないと分からないようにできている。考えることの楽しさや幸せさを大胆に表現してる。
 彼は徹底的に「NO」と言ったが、しかし存在自体を否定したわけではなかった。彼はそこにあるものを、子供のように「それ間違ってるし、気持ち悪いよ」と、ためらいなく指摘していく。つまらないドグマから解放されている精神には、彼の言葉が心地よく響く。
 まぁ時々「言い過ぎやろ」って思うけどね。


 ともかく、日常の些細なことから考えて、自分なりの結論を引き出していくという過程が好きだから、何か最初から目的があってそうするよりも、適当に進めていった先にたまたま(あるいは必然的に)目的があった、という方が好き。
 だからアリストテレスよりプラトンが好きだし、デカルトよりモンテーニュが好き。
 しかめ面より笑ってるのが好きだから、アランとかも好き。

 私って多分学問には全然興味なくて、ただ考えることと考えに触れることが好きなんだと思う。正しいことに興味はなくて、ただ、知的好奇心に任せて「これってどういうことだろう? ちょっと考えてみよう」ってのが好きなんだと思う。
 まさに「知への愛」ってやつだね。だから、必死になって勉強してたり、体系組み立てて偉大になろうとする人たちを、私はすごいとは思うけど、追従できないし、したくない。
 ワタシ、ソンナニ、マジメジャ、ナイ。

 多分私、現代にソクラテス(無職)が現れたら友達になってもらいたがると思う。
 つーかソクラテスが無職なんだから、ソクラテスを尊敬してるくせに職に就くのはおかしいんじゃない?(笑)
 いやまぁ、あいつ従軍してたから、自衛隊入らないと。絶対イヤ。

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