二極化思考にイライラ

 ものごとを何でも対立関係やプラスマイナスで捉える脳みそに、私はいちいち苛立つ。

 別の物事を一緒くたにして捉えて分かりやすくする認識方法も、ほどほどならいいが極端にやっているのを見るとイライラする。
「おま、それは違うだろ……」って口出ししたくなる。もちろん黙っているけどね。

 冗談ならいいんだよ? 笑えば済む話だから。でも本気のトーンでそれ言われると、私は真顔で黙ることしかできなくなる。
 自覚してるなら、もう少し恥じらってほしいし、自覚できないなら黙っていてほしい。


 具体的な例を出そう。

「自己中心主義」VS「社会中心主義」

 この二つを対立しているものとして捉えている人は多い。
 それに関連して、これらのものもその戦いに参戦させる。

「自由、多様性、自己責任、自己主張、感情的不寛容」
VS
「平等、統一性、協調、相互扶助、倫理的不寛容」等々。
 馬鹿か? と言いたくなってしまう。

 もし社会中心主義を突き詰めて考えるならば「自己中心的に生きることで最も高いパフォーマンスを発揮する人間」は、ほどほどにコントロールして、その人間の欠点がもたらす被害は社会が先手を打って回避するというのが良策と考えられる。
 この場合、この「自己中心的な人間」は「自由、自己主張」しかもっておらず「自己責任、多様性、感情的不寛容」に対しては中立であるし、社会的な立場でいえば「相互扶助」ができていると言える。

 適当に考えてもいくらでも例外が言えるし、そもそもこれらはそのような属性を持っていない。
 そもそも「多様でありながら統一されている」ということも可能だし「協調していながらいざとなったら自分で責任を持つ」という態度で生きることも可能だ。
 逆に「一様でありながら不統一」「協調していないのに、全員で責任をとる」ということも、よく見られることである。小学校を見てみるといい。それが現実だ。
 どちらかを選ばなくてはならない、という考え方に私は苛立って仕方がない。

 そして私がこういうことを言うと「グラーデション」だとか「中庸」だとか言い始める輩がいる。何も分かってない。

 そもそも対立関係はない! 全く別の属性であり、全く別のパラメーターであると、私はずっとそう主張しているのだ。
 もっといえば、パラメーター的に捉えること自体もまた危険な単純性とさえ私は思っている。
 たとえば一口に「平等」と言っても、それは多様な在り方があり「平等度」なんてものを持ちだしたら、全く別の「平等」を優劣で語り始めることになりかねない。

 権利としての平等と、生活水準としての平等と、能力としての平等。それらは全部同じように扱ってはいけない問題であり、それぞれについて細かく分析しつつ、ひとつずつ別の結論を出さなくてはならないものだ。
 うざったいかもしれないが、ここでも具体例を出そう。


1「生活水準は平等であるべきだ。だから、そのためには能力も平等じゃなきゃいけない。まずは優れたやつを平均的なところまで引き下げて、次に劣ったやつを平均的なところまで引き上げよう。そしたらきっと、全部が平等になって世界が平和になる!」


2「人間の能力は不平等だし、不平等のままでいい。だから、生活水準も権利も当然不平等なものだし、不平等なままでいい。優れたやつが優れた生活水準を持つのは当然だし、劣ったやつがその辺で野垂れ死ぬのも、世の定め。この意見に反対する平等主義者は馬鹿な理想論者でしかない」


 はい。両方ともクソですね。クソの理由は単純。別の物事を一緒くたにして捉えたからだ。


3「人間の能力は才能と環境の二つの影響を受けるから、コントロールするのは難しい。低い人を引き上げることは大事だが、高い人を引き下げることは、社会にとっての損失である。生活水準に関しては、そのまま社会の安定度にもつながるので、全ての人に最低限度を保障しないといけない」


 この方がずっとマシ。現代日本の政治的な基本姿勢でもある。ものごとはひとつずつ細かく見ていかなくちゃいけない。単純に捉えすぎちゃいけない。


 「全体としての結論」なんてものはないし、あるべきではないのだ。

 私は、ものごとをいかに複雑かつ正確に考えられるかということが、人間の賢さの本質だと思っている。
 それをむざむざ放棄しにいく「わかりやすさ」には心底うんざりする。

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