聖別された強迫観念

 良心の呵責。経験したことのある人は多いと思う。人に意地悪をして泣かせたときとか、物欲に囚われて人のものを奪ったりしたときとか。

 良心というものを強く持っている人たちは「人間の大多数は自分と同じように良心を持っていて、それに従う人間と従わない人間がいる」と考えていることが多い。それに加えて「善人」「悪人」と人を判断するうえでの重要な基準のひとつに「良心に従っているかどうか」を見ていることも多い。

 だが冷静に考えてみよう。「良心」とは、それを持っている人間にとって常に共通しているものであろうか? ある人の良心とある人の良心がまったく一致せず、時に正反対の性質を持つということも、可能なのではなかろうか。

 私の場合だと、誰か困っている人がいた時に、その人にひどい言葉を浴びせかけるのは、強い良心の抵抗を感じるし、実際にそんなことはできないと思う。
 だけれど、私に対して何か攻撃的な言葉を向けてきた人間に対してひどい言葉を浴びせるのは、プライドは傷つくが、良心は傷つかない。同様に、私が嫌いで、価値を認められないような醜く劣ったタイプの人間がひどい目に遭っていて、その人間を助けられるのに放置することも、私の良心は私を痛めつけたりはしない。

 私に備わっている良心とはまた別の良心を考えることはできないだろうか?
 できるに決まってる。身近に、私とは違う良心を持っている人間もいる。

 ある人は、仕事を休むことに良心の呵責を感じる。ある人は、風呂に入らないことに良心の呵責を感じる。
 ある人は、他の人に迷惑をかけることに良心の呵責を感じる。ある人は、生きているだけで良心の呵責を感じる。
 ある人は、悪い友達と遊ぶことに良心の呵責を感じる。ある人は、友達からの誘いを断ることに良心の呵責を感じる。

 良心というのは、私たちが通常そうだと思っているよりも、各個人によって異なっており、他者の良心というのは通常理解できないものである。
 そして……おそらくは「誰かを傷つけられる状態なのに、傷つけることをしなかった」というようなときに良心の呵責を感じるような、いわゆる「通常の良心」と呼ばれているものとは逆の良心を持っている人もいると思う。

 私たちは不正にものを盗んだとすると、少なからず良心の呵責を感じる。たとえそれが誰からも咎められないと分かっていても、まずいことをやってしまった、と、落ち着いていられなくなる。
 だが逆に、安全にものを盗める状況でものを盗まなかったことについて、同じように考える人間もいるのではないか、と思うのだ。つまりこの人間は、私たちが「ものを盗んではいけない」と思い込んで生きているように、「物を盗めるときは必ず盗まないといけない」という強迫観念とともに生きている、と言える。

 そう、良心とは実のところ、一種の強迫観念なのである。ただ、その強迫観念を私たちが自覚し、正当化するとき、別の名前が与えられるのである。聖別されるのである。
 「強迫観念」は、私たちにとって、開放するべき何かであるが、もしその強迫観念のことを、愛し、守るべきものだと考えたいとき、それは名前を変えて、別のものとして扱わなくてはならない。聖なるものとして扱うためには「強迫観念」というカテゴリから、それを切り離さなくてはならないのだ。
 そういうわけで私たちの「良心」には、特別な権利が与えられているのである。

 良心とは、聖別された強迫観念である。
 私たちは無意識下で、色々なものを実際以上に高め、神聖なものと見做し、祭り上げている。私は、人間のそのような高度な本能を、優れたものだと見ているし、それを自覚したからといって、冒涜する正当な理由にはならないと思う。私たちは嘘を嘘だと思ったまま信じることができるほど、高度な存在なのだ。

 私には私の良心があり、それは普遍的なものではないが、私の食欲や睡眠欲、性欲などと同様、尊重され、愛されるべきものだ。
 私の良心は、私の他の強迫観念とは異なり、私の中で重要な位置を占めているし、それは守られているべきものだ。

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