名付けなくてはならない
全ての言葉は名付けられたものだ。決して言葉は自然発生したものではなく、人間がそこに意味を与えたから、そうして馴染んでいったものだ。
私たちの今着ている服が、自然発生したものではなく「寒い」とか「恥ずかしい」とか、そういう感覚や感情によって必要性が生まれ、誰かがそれを作り、誰かがそれを届け、売り、私たちが買うか受け取るかして、ふだんタンスやクローゼットにしまわれているように。言葉とは服なのだ。もっと古い言い方をすれば、言葉とは皮膚なのだ。皮膚というのもまた、最初の生物が持っていたわけではない以上、それはあとから生まれてきたものだ。それも、生物というものの中から。
私たちの内側から、次々と新しいものが生まれてくる。これまでの人間が誰も感じたことのないようなものを、この先私たちは感じ取っていくことだろう。そのたびに私たちは名付けの必要性に迫られる。名付けだけじゃない。意味付けも必要だし、意味の裁判官も必要だ。名付けられたそれが語られるたびに、それが正しく語られているかどうか、審判する何かが必要なのだ。
それは「正しさの規定」でもある。普遍的な正しさというものがこの世に存在しない以上、私たちは自分たちの意思で正しさを定めなくてはならない。いや、誤解を恐れず言えば、私たちは私たちの「趣味」で、正しさを定めなくてはならないのだ。
これまで人類はその「趣味」によって正しさを定め、また別の「趣味」によって、その正しさを否定し、破壊してきた。日本人の宗教観なんて、まさにそれをよく表している。私たちの信仰の「何となく」という感じは、まさに、その趣味の曖昧さを示している。私たちは私たちが好きなもののことをよく分かっていないし、分かろうともしていないし、それが美徳であり、それ自体が一個の趣味だったのだ。
つまり私たち日本人は伝統的に「分からなくてもいい。むしろ、分かろうとすることは悪趣味だ」と感じながら生きてきたのではなかろうか。あまりにも日本の歴史には不明性が多すぎるし、その不明性が愛され過ぎている。見ざる聞かざる言わざる。まさに「趣味」の世界だ。
私たちは悪趣味なものに対して吐き気を覚える。そして現代社会は、私にとって、非常に悪趣味なものだ。きっとそう感じるのは私だけじゃない。
悪い趣味に名前を付けるのは、私の趣味に合致しない。名前を付けてしまえば、その名前が私の頭によく浮かぶようになってしまう。私が名付けるのは、私がそのことについて考えたいことなのだ。
嫌いな人の名前をあえて憶えておかないようにしたり、好きな人の名前は色々なあだ名をつけたくなったりするのと同じように、私たちは、自分の愛する形なきものに名前を付けるべきだし、それを私たちの「よき趣味」と呼ぶべきだろう。
私たち人間は、それぞれが自分の言葉を話す権利を持っている。相手に対して、新しい言葉を示し、主張し、その正しさを裁く権利がある。言葉は、作れるのだ。
世界は言葉より豊かだ。世界に存在するものを、私たちは言葉によって暗示するのだ。つまり私たちが暗示したい「現実」を、名付けによって他者に示すのだ。
「喜び」や「悲しみ」という言葉を発明し、それをはじめて人に伝えようと思った人はきっと、その言葉がそのままの形で自分の気持ちが伝わっているとは思わなかったことだろう。それでも、その時できる最大限の表現で、その暗示と現実とを一致させるように努めたことだろう。自分が喜びという感情を感じるたびに「喜び」と口にしたことだろう。誰かが喜びという感情を感じていそうだと想像するたびに「喜び」と口にしたことだろう。
私たち人間は、不器用なのだ。だから、これほどまでに時間をかけて言葉を育ててきたのに、まだ表現できていないことが山ほどある。
かつて表現できていたことが表現できなくなってしまったこともあったことだろう。
もしかすると、表現できなくなると、感じることも難しくなるような現実もあるかもしれない。「をかし」や「あはれ」とは違い、もう誰も思い出したり、想像しなくなってしまった、かつて当然のように感じられていた感情があったかもしれない。
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私は「理知的」という言葉の意味を変えたい。
理も知も、感情を否定した先にあるものではなく、感情と和解した先にあるものだと、私は人々に理解してほしい。何の感情もない、冷徹で利己的な、そういう合理性に基づいた生き方を「理知的」などと言うのは悪趣味だ。
理性と感情は、両方が並んで歩まなくてはならないのだ。共に尊敬しあいながら、同じ方向を向いて、ときに争いながら、そうやって生きて行かなくてはならない。
人間的であるということは、理知的であるということであってほしい。
私は人間がもっと理知的であってほしいのだ。理知的であるということが、人間らしさの条件になってほしいのだ。
理性がなく、ただ感情的なだけの生き物は、動物だ。だが、感情のない理性はあまりに機械的だ。くだらなくて、つまらなくて、絶望的だ。永遠に自らの存在を存続させるためにだけ存在する機械に、何の意味があるだろう? 理性だけが支配する世界は、確かに不幸はないかもしれないが、同時に、あらゆる多様な幸福も消え去って、たったひとつ「何もないこと」が「真なる幸福」としてそこに立つことになることだろう。そんな世界、悪趣味だ。不愉快極まりない。一種類の幸福しかない世界で生きるくらいなら、幾億の不幸の中で生きた方がマシだ!
賢さは優しさであってほしい。強さは誠実さであってほしい。知恵は共に生きることであってほしい。
私たちは言葉の意味を捻じ曲げる力を持つ。そしてそれを、知らず知らずのうちにいつも用いている。
私は私の意思で言葉を捻じ曲げたいのだ。
犬は自分の意志で吠えているわけではない。吠えずにいられないから吠えるのだ。
吠えることを堪えることができるようになった犬は、時に自らの意思で吠えるようになることもあるだろう。そしてそのとき初めて、その犬は自分が吠えることの「意味」を持つ。
私たち人間もそうだ。私たちは言葉を話すとき、意味を捻じ曲げずにいられないから、意味を捻じ曲げる。自覚していない人間ほど、無趣味的に、自然的に、意味を捻じ曲げる。自分自身の本能や利己心のために、捻じ曲げる。
私たちは、意味を捻じ曲げずに生きるためには、沈黙するしかないことを知っている。「言葉そのもの」を発することなど私たちにはできないのだ。それが文脈の中に現れた時点で、そこに生じる無数の解釈が、私たちの言葉の恣意性を明らかにする。
だから私たちは、沈黙を破り、言葉を発するのだ。黙ることができるから、無数の選択肢の中から、私たちの意思で、恣意的に選び出し、そこに言葉を置いていくのだ。
私たちの発する言葉が言葉の意味を作り出していくのだ。私たちが、意味を捻じ曲げているのだ。
賢い犬が「どのように吠えるか」その犬自身の意志で変えることができるように、私たちは私たちの「意味の捻じ曲げ」を、私たち自身の意思で、私たち自身の「趣味」で、実行しなくてはならない。
私たちは「正しい言葉」ではなく「美しい言葉」を話すべきだし、「美しい言葉」が、結局のところ、正しい言葉になるのだ。
私たちは私たちの愛するものを、美しく感じるようにできている。だから、私たちにとっての「正しさ」とは、私たちが愛するもののことを言うのだ。
言葉を愛するのではない。愛するものを、言葉にするのだ。愛するものを、美しい名で呼ぶことによって、聖別するのだ。
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