支配者の方がまだ人間的だ

 この世界には支配被支配の構造があるのは言うまでもないことだ。だが自分が被支配者であるからといって、支配者の心理構造や生い立ちは理解できないものであるかというと、全然そんなことはない。支配者は神のような存在かというと、別にそんなことはなく、支配者として生きている人間にも悩みはあり、別の言い方をすれば、彼らだって、何かから支配されているし、それに不満を持っているのである。

 この世の全てを支配することのできる人間などいない。金を持っている人間ほど、金でできることの限界は理解している。だから、政治の世界に何が何でも進出しようとすることは多いし、どれだけうまくやっても、思い通りにならないことが多いことも理解している。

 それに何よりも、金を持っている人間ほど、人から賞賛を受けることに慣れていると同時に、賞賛というものには嬉しいものと不快なものがあるというのも知っている。彼らに趣味がない場合はくだらない贅沢だとか、優越感に浸ったまま人生を終えるが、彼らに趣味がある場合は、なかなかにその人生は深刻なものとなる。
 彼らは自分に与えられた自由の中で何をすべきか迷うであろうし、時に何をやっても空しく感じてしまうこともあるだろうと思う。誰かを傷つけることによってどうにかして生の実感を得ようとすることもあるだろうし、さらなる富と権力の追求という、ありふれた目標に向かって努力し続けることによって己の存在意義を空しく証明しようと試みる場合もある。
 もっともすぐれた場合は、自分の立場にふさわしい優れた人格を持って、優れた統治を実現したり、あるいは学問の世界で何らかの業績を示し、自分の名と生きた証を永遠に残そうとすることだろう。
 また別に、自分たちよりも貧しく余裕のない人々のために自らの人生を捧げようと思う人間もいるだろうし、そういう慈善活動も、ひとつの力の形だ。支配者の行動形式だ。

 生まれた時からずっと何かから支配され、身近な人間との争いに追われ、そういう風に生きてきた人間にはおそらく支配者の苦悩というものは感じられないと思う。実際のところ、支配者も被支配者も、結局は地獄のような苦しみの中で生きている。被支配者の地獄の方がより具体的で物質的なものではあるが、それによって支配者側の苦しみが相対的に軽いものになるわけではないし、時に支配者の方が派手で悲惨な最期を迎えることも珍しくない。実際、それに相応しいくらい精神的に苦しみ、薬物に溺れ、周りから蔑まれ、いかにして彼の財産を盗み取るかということばかり考えている人間に囲まれて、悲しく人生を終える人間は、あまりに多い。

 くだらない誰かの設定した競争の中で生きている人間は、軽蔑されるべき人々ではあるが、だがおそらく幸不幸の話をするならば、彼らの方が支配者の側よりも幸せなように私には思える。支配者の方はいつも何かに怯えているし、その怯えの程度に従って、怯えがないかのような演技をするように迫らている。
 自分はしょせん一個の人間に過ぎないと気づかずにいられないのに、自分の所有する財産や地位によって、自分は一個の人間よりも立派で、強く大きな存在であると、そういう幻想を自分と周囲に示し続けなければならないし、それを揺るがすような事態に対してより一層強い配慮を欠かさずにいなくてはならない。

 そういう生き方自体に楽しさや喜びを感じる「生まれながらの支配者」も、少数ながら存在するのだろうが、彼らは英雄であり、なるほど、一般庶民の敵ではない。そういう、無理せず人々をまとめあげ、立派で強大な自分でいられる人間というのは賞賛に値するし、当然自分以外の他者に対して極めて公正であるし、くだらない自己保身に囚われたりすることもないであろう。
 彼らのような存在は極めて稀なケースであるし、他でもない彼ら自身が他者からの配慮を必要としない人間であるから、ここでは脇に置いておこう。

 ただ重要なのは、たいてい支配者というのは、被支配者が思っているほど悪劣な存在ではないし、悩みのない存在ではないし、強い存在でも大きな存在でもないということだ。どちらかといえば、途方もないほどの惨めさを内に抱えていることが多い人間である。軽蔑するためや同情するためにそう思っているのではなく、見ていて残念に思うくらい、気の毒に思うくらい、暗い顔つきをしていることが多すぎるのだ。
 それよりはまだ、仲間内で酒を飲みながら好き放題悪口を言っている支配される側の人々の方が、気楽で幸せなように見えるし、実際支配者たちも、時々そのような思い付きに囚われ、心を悩ませている。
「彼らは自分の思ったことを正直に語れるが、私はそうじゃない。私は私に相応しい言葉しか言えないし、だからこそ私は、私の中の弱さは私自身の中で片づけなくちゃいけない。それができる人間だからこそ、私は彼ら弱い人間とは違うのだし、人の身でありながら、他の人間を支配していてもいい人間でいられるのだ……」

 私は実際のところ、もっとも低い立場、つまり何もしない人間であるからこそ、支配することもなく、支配されることもなく、生活することができている。そんな私が人々の生活を眺めている時、私は支配者側の人間の方がたいていまともな認識の目を持っていることを知っているし、悩みも多く、具体的で、しかも解決不能なものを抱えていることが多いことも知っている。
 外的な問題ではなく、内的な問題について深く悩み、そこで破滅する可能性は、支配する側に近ければ近いほど、高まっていくものだと私には思える。彼らは自分の悩みを周囲に話すことなく自分で考えて解決できるし、だからこそ自分で解決できない問題は、自分の中でずっと積もり、深まり、膿となり、彼ら自身を腐らせる。
 彼らには高いプライドがあるし、プレッシャーもある。だから医者にかかろうとすることは少ないし、統計上では彼らは健康であることが多いかもしれない。だが実際の彼らの体や心は、ボロボロであることが多いし、そのうえで気力を奮い起こして誰かの上に立とうとしているその姿は、ある種賞賛に値するものだと思っている。

 私は別に、支配される側にも支配する側にも肩入れする理由など持っていないし、正直どちらとも関わりたくないと思っているある種例外的な人間ではあるのだが、現代では支配的で富を多く持っている人間ほど、そうでない人間よりも聞く耳を持っているし、人間というものへの理解が深いことが多いので、必然的にどちらかというと、彼らに合わせて話をした方が通じることが多いのではないか、と思うのだ。

 私は支配する側に敵意を持っている人間が、冷静に事情を理解して動き、目的を達成することは基本的にないものだと思っている。そもそも彼らがこれまでうまくやってきたなら、とうの昔に支配被支配の構造などなくなっているか、もっと小さくなっているはずだ。

 結局のところものごとをうまく運ぶには知恵が必要であり、知恵とは理解のことでもある。私は基本的に少数の支配する側の方が、他者の言うことについて真剣に聞き、それについて自分なりの考えを出す能力を有していることが多いと思っている。

 誰かの意見に対して「YES」か「NO」かしか言えない人間や、暴力以外の方法を思いつけない人間、競争の中でしか自分の価値を見出せない人間などと関わるよりは、誰かを支配することによって何事かを成し遂げようとする人間の方がまだ好ましい。
 私自身はどちらにもなれないし、おそらくはどちらの人間からも蔑まれるしかないタイプの人間ではあるが、それでも私自身の趣味は、そういう感じである。

 あと、やっぱり私が言葉を贈りたいのは、支配や被支配など関係なく、ただ一個人として自分の中で生きようとしている人間だ。
 支配者のことも、被支配者のことも、等しく自分にとってはどうでもいいことだと割り切って、認識の目で見て楽しむことができる人間だ。実際にその人がどのような生活を過ごしているかなんてどうでもいい。どういうタイプの人間と付き合っているかもどうでもいい。ただその人自身が、見よう、理解しよう、世界を広げよう、と考えているならば、それで十分だ。

 私は他者の地位とか利益とか罪とか人間関係とかそういうものには全然興味がない。私自身にそういうものがないからだ。
 ないものは比べられない、というわけだ。

 私のような人間はたいてい蔑まれるか同情されるかだが、ごくまれに尊敬されたり羨まれたりすることがある。
 私はそれについては、人並みに嬉しく思う。

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