私には虚構を産み出す力が欠けている

 自分の空想癖が他の人と比べてどの程度かは知らない。ともあれ私は、自分の創造性というものに一切の自信がない。

 小説を書くのは大変だ。書きたいものが出来た時は一気に書き上げてしまうが、そうでないときは基本的に書かないし、書けない。

 無理やり書いた長編作品はいくつかあるが、自分で読み返すのも億劫になるほど、退屈でくだらない話になってしまった。
 普段何を書いててもだいたい褒めてくれる友達も、めちゃくちゃ微妙な顔して「悪くはないとは思う……」みたいに言って、私はその時、確信した。
 私は私が書きたくない話を書いても、どうしようもなくつまらないものしかできないのだ、と。

 私自身、そんなに小説が好きではないというのもある。小学生の頃は伊坂幸太郎の初期のころの作品が好きだったが、エンタメ性が強くなり始めてからはくだらないと思うようになった。暇つぶしにしかならないし、暇つぶしならまだ哲学書を読んでいた方が楽しい。
 私は物語に触れて楽しむよりも、人の心に触れて楽しむ方が好きだった。「面白い話」からは、あまり人の心が感じられないことが多いから、元々そんなに好きじゃなかったのだ。

 私はどうしようもなく「心」が好きで、結局私が描ける「心」は、私自身のそれと、身近にいる人から見て取ったそれくらいのものだ。

 だから結局のところ私は……エッセイと私小説しか書けないのだ。

 ファンタジー小説を書いていたこともあるけれど、それは世界の法則が異なるだけで、そこにいる人々の心や関係は、現実のそれと大差なかった。つまるところ、ファンタジー小説というより、ファンタジック随筆だったのだ。


 私は自分が何を書けばいいのか分からない。だから、こんな文章を書いている。何が書けるのかも、何を書くべきなのかも分からないから、立ち止まって、自分を振り返っている。

 私には虚構を産み出す力が欠けている。ある意味私という存在自体が虚構だから、そういう意味では、絶えず私は虚構を産み出しているわけだけれど……
(時々私は、私が私を演じていること自体が、私の想像力を消耗させてしまっているのではないかと疑ってしまう。つまり自分が……「こういう自分でありたい」という自分を演じていること自体が、無駄にエネルギーを消耗することに他ならないのではないのか、と。しかし私はもはや、ありのままの自分でいるということが分からない。そういう風に書こうと努力していた時期もあったけれど……結局よく分からなかった)


 「なんのために書くのか」という問はくだらないし、どうでもいいことだ。そんなのは、理由がないと書けない人間が考えることだ。

 私が悩んでいるのは「何を」書くのか、という問題だ。でもそれはきっと。
「そんなのは、書くべきものを持っていない人間が考えることだ」
 しっかり自分の言葉が自分に返ってきている。(私は自分の言葉の刃が自分に返ってくる感覚が好きだ。それは私の心を鋭敏にしてくれる)

 私は結局のところ、ただ待つことしかできないのかもしれない。

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