人の意見を否定してもいい


 最近よく、人の意見を否定することに反対する人が多い。おそらくそれは「多様性」や「個性」を勘違いしているからだと、私は思う。
 「人の意見を否定してはいけない」と言う人ほど、不当かつ無自覚に人の意見を否定している場面をよく見かける。
 具体例をあげよう。
 「そんなに否定されたら息苦しくなってしまいます」
 「あなたがそんなに攻撃的になるのは、あなた自身に何か闇を抱えているからだ」
 「人の意見は人それぞれなんだから、外野のあなたがあーだこーだ言うのはおかしい」
 「あなたは自分のことを賢いと思っているかもしれないけど、世の中はあなたが思っているよりももっと広い」
 等々と。これらの意見は、一見正論であるかのように見えるが、実際は単なる相手の意見を全否定しているに過ぎない。しかも、本人はそれに気づいていないことが多い。自分の「否定」に気づかず、他者の「否定」には敏感に反応する。
 私ははっきりと断定する。「否定の否定」は「肯定」ではない。それは「否定」の一形式であり「否定の連鎖」の一部でしかない。

 「人の言うことを否定してはならない」とビクビクして何も言わなくなっている人は多い。
 私はそういう人に「慎重なあなただからこそ、間違っていると思ったら声をあげていい」と言いたい。
 人の言うことを、否定してもいい。自分が間違っていると思ったなら、間違っていると思うと言ってもいい。はっきりと否定していい。ただし、もし後で自分が間違っていたと分かったなら、素直に認めて謝ること。そして、人が間違えたことを言っても、寛容であること。「お前は悪い奴だ」などと決めつけないこと。間違えることと、悪人であることは全く無関係であり、もし相手が自分のことを勘違いして悪い奴だと決めつけてきても、穏やかに接すること。そういうことは誰にでもあるし、自分もそうならないようにしようと、自己を律すること。

 日本人特有のものかは分からないが、区別すべきものを区別できていない人は多い。
 「意見をはっきり言うこと」と「何の遠慮もなく思ったことをそのまま言うこと」は違う。
 同じように「はっきりとしたひとつの意見」と「感情的なだけの意見」は、同じように取り扱うべきでない。
 それが真剣に考え抜かれた意見なら、たとえそれが根本的な誤りを含んでいたとしても、尊重しておくべきだと思う。
 しかし、つまらない偏見や固定観念、その人自身の劣等感や歪んだ自尊心から産み出された意見は、はっきりと否定していい。
 それは個性と呼べるものではない。ただの感情の塊だ。その人が口から吐き出した唾に、尊重すべきものは少しも含まれていない。だから、無視していい。

 ただし、無視するにしても、否定するにしても、一歩立ち止まって「どのように無視するか」「どのように否定するか」は考えなくてはならない。
 実のところ、無視にも否定にも、無数のやり方がある。そして、善いやり方と、悪いやり方がある。
 落ち着いて、周りを見ること。自分に求められていることを探すこと。自分らしさと、その場の空気の中間点を見つけること。
 無理に自分らしくないことをしないこと。無理に空気を読みすぎないこと。

 いつだって大事なのは中庸だ。私は自分の意見をはっきり言うことを勧めるが、それはどのよう場でもそうすべきだと言っているわけではない。
 言ってもいい場面でだけ、言うべきだ。落ち着いて、自信をもって、あとで後悔しないように言葉を選ぼう。

 コップ一杯の水と、深呼吸。人を賢くするのは、その二つだと私は思っている。

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