【客観的自己紹介】彼女が社会を憎んでいる理由

 人は、自分が何かから害されたときに憎しみという感情を抱く。

 たとえ憎しみを持ちづらい人間だとしても、絶え間なく苦痛を与え続けられた場合、復讐心を持たざるを得ない。
 憎しみが分からない人には、こう想像していただきたい。自分が相手の言うことに従い、相手の利益となるような行為をしたにもかかわらず、相手は自分を十年以上、自分が苦手な仕事を強制し、給料も払わず、めずい飯しか与えられず、しかも病気になったときも、まともな医者を呼んでもらえなかったとしよう。
 機会が与えられようが、与えられまいが、あなたはきっとその相手のことを「死ねばいいのに」と思わずにいられないことだろう。「とっととくたばってしまえ!」と思うことだろう。

 人は、自分を害したものを憎む。自分の人生や生き方を狂わせた存在を憎む。
 自分自身に問題があったかどうかは、この際重要ではない。あくまでその人間の目線において、害されたという事実が覆しようがない場合、その人間は憎しみを抱かずにいられないのである。

 それだけではない。もし現在害されていなかったとしても、今後害される可能性があるという状態にある場合、その人物の憎しみは恐怖とともに増大し、その対象を忌避するようになる。できる限り、関わらないようにしようとするのである。
 その対象から離れるのは、自分の変えようのない憎しみという感情から逃れ出るためである。もし憎しみが消える瞬間があるとすると、その人物が自分や自分の周囲の人間を二度と苦しめることがないという保証がある場合のみである。

 このような法則を、私はまず皆に同意していただきたい。人間は、自分を害した存在を憎む生き物である、ということを。


 ここにひとりの少女がいる。年は十七。年齢の割に、頭はよく回るし口も達者。ものごとを色々な面から切り取って見ることに長けており、自分自身の能力のことも客観的に理解している。
 少々傲慢なところもあるが、それは若く優秀な頭脳を持った者にはよくあることであり、特筆すべきことではない。
 彼女の人格や能力の問題点があるとすると、ひとつは生活習慣が元々安定していなかったことにある。彼女は幼少期から眠る時間も起きる時間もバラバラで、本人自身、それはあまり気にしていなかった。十分に睡眠がとれていないと途端に不機嫌になる部分もあり、集団生活に向いていない体質であった。食事を抜くことも多く、好き嫌いも多かった。それでも自分の体に素直であるからか、体は健康そのもので、病気になることは少なく、病気になってもすぐに治るだけの頑健さは備わっていた。
 彼女は単純作業を極度に嫌う性格であった。手先を使うような単純作業を命じられた場合、五分ほど経つと体がむずむずしてくるような人間であった。退屈な小学校の授業中は、空想にふけったり、自分で自分の体をくすぐったりして我慢をしていた。
 彼女は幼少期から頭がよく、自分が苦手な部分を隠すすべに長けていた。ゆえに、周りの人間は誰も彼女に何か問題があるとは考えていなかった。

 彼女は、他の多くの人々と同様に、人間というものを深く愛していた。人が痛い目にあっている場面を見ると目を覆い、人が幸せそうに笑っているのを見ると、自分も同じように笑った。
 彼女は人当たりがよく、老若男女問わず、人から良くしてもらえることが多かった。彼女は周囲の人間をみな愛していたし、人を嫌いになることは少なかった。


 人間というのは意地悪な生き物である。ただ小さいうちは知恵もあまり働かないので、誰かにひどいことをするにしても、直接的であるため、大人もすぐに気づくことができるし、咎めることも容易であった。
 人は成長するにしたがって、その攻撃性の増大とともに、狡猾さも身に着けていく。早熟な子供の多い現代社会においても同様に、小学校の学年が上がってくると、だんだん教室の空気はよどんでくる。
 敏感な感性を持っていた彼女は、どんどん狡賢くなっていく学友を内心で見下すようになっていた。そして当然、自分が正しいのだという考えを補強するために、勉強に力を入れるようになっていく。
 大人たちはそんな彼女を褒めた。彼女が何か成果を残すたびに、大げさな言葉で彼女を褒めた。彼女はそのたびに素直に喜び、自分の将来は明るいのだと信じることができていた。まだその時は。


 彼女の人生が大きく変化したのは、中学三年生の時であった。彼女と仲が良かった親戚の青年が、自殺したのだ。
 当時彼女自身、受験勉強で忙しくしており、ずっと自分の人生がそのように続いていくということに、言いようのない嫌悪感を強く抱いている時期であった。
 優しく、活動的で、明るい性格の仲がよかった青年が急に自殺したというのは、彼女にとって想像を絶するようなショックであった。彼女は彼の遺品を整理するのを手伝い、そのとき彼の残した文章に触れた。その文章があまりにも、自分がずっと続けてきた日記に書いていたことと似通っていることに驚愕すると同時に、社会への疑問をそれまで以上に強く抱くようになった。
 彼女はこの時点で、社会を強く憎んでいた。彼女の目線においては「この社会が大好きだった人を殺した」と映ったのだ。

 人は対象からどれだけ恩恵を受けていたとしても、たったひとつの致命的打撃によって、その感謝は簡単に反転して憎しみに変わってしまう。そしてそれは簡単に戻ることはない。

 彼女はその後、自殺未遂を行った。運よく生還したが、そのときに感じた痛みも苦しみも、その原因を彼女は「社会」に押し付けた。
 「事実として、自分と同じような人間が今後生まれてくることがある以上、現在の社会のシステムを肯定することができない」彼女は自分にそう言い聞かせ、その憎しみを己の中の確固たるものとした。

 退院後、彼女の高校受験は成功した。誰が聞いても成功だと思うような結果であった。通える範囲で最も学力の高い高校に、私立公立問わず合格したのだ。だが彼女がそこで感じたのは喜びではなく「くだらない」という軽蔑の感情であった。同時にその感情は「くだらないことに一喜一憂している学友たち」にまで飛び火した。
 彼女は周りの人間を強く見下すようになった。


 人というのは、軽蔑している対象に本音を語ることができない生き物であるようだ。
 疑い深い彼女は何度も「私が人を軽蔑しているのは、それによって自分の自尊心を守るためなのではないか」と考え、心理的な抵抗を無視して多くの人間に相談をした。しかし返ってきたのは、彼女の軽蔑を助長するような回答ばかりであった。
 彼女の身近な人物も、学校の教師も、彼女の悩みに対して、満足に答えることはできなかったのだ。

 彼女は歪んでしまった。しかもその歪みは、ありふれた歪みではなく、稀有な人生を歩んできたことによる歪みであった。
 彼女はことあるごとに死んだはとこを思い返す。自殺未遂の時についたかかとと背の古傷が疼くたび、社会への憎しみを強く意識した。
 同時に、どうあがいても自分が社会の中でしか生きられないという事実が、さらに彼女を苦しめ、惑わせた。


 彼女は現在、岐路に立っている。憎しみを捨てるというのは、その言葉ほど簡単なことではなく、自分自身をまっさらにして作り変えるほどの大事業を意味する。

 彼女は自分の憎しみが自分自身を内側から苦しめ続けていることを自覚している。自覚したうえで、それを捨て去ることをやっと選択肢の中に入れ始めた。

 彼女は悩んでいる。彼女は苦しんでいる。どうか……彼女の人生に幸あらんことを!

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